2013年11月23日土曜日

赤竜 3

3 は掲載しない。
書いたのだが、もう取り出せないからだ。
一番最初の iMac の中に入っている。
取り出す前に、マシンが壊れてしまい、もうディスクから取り出すことが出来なくなってしまった。
どんな話か内容は少し覚えている。

オーリーとレインボウブロウは新しいアパートに引っ越す。
兄妹のふりをして始めた新生活だが、彼はまだ彼女の正体を掴めないでいる。

富裕層を顧客とするサナトリウムで変死事件が起きる。
入所者が何者かに押しつぶされた様な状態で死亡したのだ。
外部から人が侵入した様子はないが、施設内で人間の骨をバラバラに砕ける様なものも見つからない。
オーリーは庭に残された深い足跡を追うが、庭に並んだ石像の一つで足跡は途切れていた。
変死事件が解決出来ないので、オーリーはレインボウブロウをサナトリウムへ連れて行く。
彼女は塀の外で異常な気配を感じて中に入ることを拒む。

二人目の犠牲者が出て、警察は連続殺人として捜査するが、何の手がかりも得られない。
そのうちにオーリーは一人の従業員の態度が不審なことに気が付く。
従業員が石像の設置に関与したことが判明し、オーリーは大胆な仮説を立てる。

オーリーが従業員を問い詰めると彼は石像を動かして問題を起こす入所者を殺害したことを認める。
石像でオーリーを襲わせようとするが、そこにレインボウブロウが現れ、オーリーを間一髪で抱えて空へ。
石像は彼女が投げたダイナマイトで破壊された。


赤竜 2 その21

 レインボウブロウが身の回りの物を取りに帰るので、付いてこいと言った。相変わらずどちらが「ご主人様」か判らない。オーリーは早朝のカッスラー邸を訪 問した。ドアベルを鳴らすと、不用心にも直ぐドアが開いて、イヴェインが顔を出した。彼女は笑顔で挨拶するオーリーを無視してレインボウブロウを抱き締め た。
「良かった、帰って来てくれたのね。一昨日のこと、怒って出ていったのかと思った。」
 何があったのか知らないが、レインボウブロウが「ほらね」と言いたげにオーリーを見た。イヴェインは彼女に完全に寄りかかっている。しかし普通の人間で ないレインボウブロウにとっては、それは迷惑であり、イヴェインにとっても好ましくない事態だった。イヴェインは彼女の魔性の虜になってしまい、他の人間 が見えなくなりつつある。レインボウブロウはイヴェインを自分だけのペットにするつもりで生き返らせたのではない。綺麗な魂の持ち主を地上に留めたかった のだ。
「可愛いイヴ。」
とレインボウブロウが囁いた。
「もう苦しまなくていいからね。」
彼女は背伸びしてイヴェインに自分から抱きつき、唇にキスをした。女性同士のキスが美しく見えて、オーリーはドキリとした。イヴェインは目を閉じた。そし てゆっくりとレインボウブロウが体を離しても、そのまま固まった様に立っていた。レインボウブロウはオーリーを自分の位置に立たせた。
「荷物を取ってくるから、彼女を見ていて。」
 オーリーは言われた通りイヴェインを支えて立った。イヴェイン・カッスラーは美しい。やっと20歳だ。財産はあるが、守ってくれる人がいない。否、レイ ンボウブロウが陰から見守るだろう。では、オーリーの役割は?彼は自分がイヴェインの心に入って行けないことを悟りつつあった。彼は彼女を守ってくれる 「いいお巡りさん」でしかないのだ。もし、ここでイヴェインが彼を認めてくれても、それはレインボウブロウの魔法としかオーリーにも思えないだろう。二人 が愛し合えることが出来るのは、もっと先の話だ。
オーリーはイヴェインの唇に軽くキスをした。
 レインボウブロウが戻って来た。小さな鞄一つだけ持っている。
「先に車に乗っているから。」
と彼女はオーリーに言った。
「私がドアを閉じたら、彼女の時間が戻る。彼女は目覚めた時、私のことを忘れている。だから、そのつもりで会話して欲しい。」
 オーリーはイヴェインの顔を見つめたまま、尋ねた。
「君のことを忘れるって?ソーントンの屋敷のことも忘れるのか?」
「それは覚えている。私のことだけ、記憶から消した。支障はないはずだ。」
 レインボウブロウはオーリーとイヴェインの横を通り、外へ出た。彼女がドアを閉じた音で、イヴェインが目を開いた。オーリーは素早く身を離した。
「あら、オーリー、私、何をしていたのかしら。」
 ぼんやりとイヴェインが回りを見回した。
「寝起きだね。」
とオーリーは微笑んで見せた。
「勤務明けに、様子を伺いに寄らせてもらっただけだよ。変わりないかい。」
 イヴェインは彼が大好きな笑顔を見せた。
「ええ、新しい職場で友達が出来たの。いろいろ心配をおかけしたけれど、もう一人でも平気、有り難う。」
 そして、台所の方を振り返った。
「コーヒーでも如何?」
「否、遠慮しておく。早く帰ってベッドに潜り込みたいからね。」
 彼がドアを開いて外に出ると、イヴェインも見送りに出て来た。車を見て、彼女が尋ねた。
「お連れさんがいらっしゃるのね。ガールフレンド?」
 オーリーは首を振った。
「妹だよ。似てないのは、親が違うから。」
 イヴェインは笑顔で車中の娘に手を振り、オーリーに挨拶のキスをした。
「いいわね、姉妹がいて。私も兄弟が多い彼氏を見つけるわ。」
 オーリーは黙って微笑を返しただけだった。
 彼が車に戻り、走り出してから、レインボウブロウが話かけた。
「口説かなかったのか?」
「彼女の心に俺はいないよ。」
「これから入っていけばいい。」
 そして、彼女は尋ねた。
「引っ越しは何時にする?」
       終わり

2013年11月21日木曜日

赤竜 2 その20

「しかし、君はこいつと意志を通じ合えるだろう。」
 人魚はオーリーではなく、間違いなくレインボウブロウを恐れている。彼女が何者か判っているのだ。それは、彼女の隙ではなく、オーリーの隙を窺っている ことでも判った。彼を突き飛ばして海に戻りたいのだ。しかし彼女とは戦いたくない。どっちが強いか、どちらがより残酷になれるか、知っている。
 人魚が苦しげに口を開閉させた。水を求めていた。そろそろ皮膚が乾き、力を失ってしまいそうだ。
「早くしなければ、こいつは死んでしまうぞ。」
「死ねばいい。」
とレインボウブロウ。
「これは遊びで人間を殺した。今逃がしたら、また場所を変えて同じことをする。」
 人魚がオーリーの方へ体を進ませかけたので、彼女は彼の前へ入った。人魚は彼女に歯を剥き出してまた「シャーっ」と声を出した。
「駄目。」
と彼女がソレにきつい調子で言った。
「おまえは殺すことを楽しんだ。」
 人魚がまた「シャー」と言った。オーリーには全部同じに聞こえたが、レインボウブロウは違う答えを言った。
「人間は魚を食べる。おまえは人間を食べない。食べないのに殺すのは良くない。」
 人魚は熱い地面に顔をつけてしまいそうな位置に頭を降ろした。ソレにとって、焼けたフライパンの上にいる様な気分なのだろう。オーリーはこの醜いメルヘンのなれの果てが哀れに思えた。
「見逃してやるから、二度と陸地に近づかない、と誓え、と言ってくれ。さもなくば、このままここに置き去りにするぞ、て。」
 レインボウブロウは不本意ながら、「ご主人様」の言葉を繰り返した。オーリーには同じ英語に聞こえたが、人魚には別の言語として解釈された。人魚は大人しくなり、小さなシューシューと柔らかい声を出した。レインボウブロウがオーリーを振り返った。
「誓うそうだ。」
 人魚の世界の義理がどんなものか判らないオーリーは、彼女にもう一つ通訳させた。
「誓いの証を示せ。」
 人魚は躊躇った。ソレは何も持っていない。そしてオーリー同様、どうすれば人間に誓いを示せるのか判らないのだ。レインボウブロウが苛々した。遠くから 車のヘッドライトが近づくのが見えたからだ。彼女はいきなり人魚のそばにフワリと飛び寄った。人魚が身をかわそうとするのを、尻尾を抱える様にして捕まえ た。自分の身を尻尾の縁で切られないように用心しながら片腕で人魚を押さえつけ、彼女は人魚の左手首をたぐり寄せた。
「人間はおまえが害のないモノになれば安心する。」
 そう言って、いきなり人魚の手首をちぎり取った。オーリーは思わず目を海へ向けた。人魚が不気味な悲鳴を上げ、黒い血液が噴き出した。それでも、レインボウブロウは表情ひとつ変えずに、人魚の血が自分に降りかからないように素早く相手を海へと投げ込んだ。
 オーリーは桟橋の端に駆け寄り、暗い海面を覗き込んだ。人魚の姿は最早見えなかった。彼は顔を上げ、レインボウブロウが戦利品から血を絞り出すのを嫌悪の目で見た。
「あいつは出血で死ぬかも知れない。」
「それは地上の生き物のこと。それに、数年すれば、また新しい手が生える。」
 彼女は手首を振って、最後の一滴も捨てた。
「この血は、人間には猛毒だ。触れると、あなたは死んでしまう。」
「あいつは君を恨んでいるだろう。また人間を襲うのではないのか。」
「あれは誓った。もう陸には近づかない。」
「信用出来るのか。」
「血の誓いは神聖だ。破れば、あれは即座に死ぬ。」
 彼女は手首を地面に置き、衣服を身につけた。オーリーはクーラーボックスに気味の悪い手首を入れた。
「鑑識がこれをどう分析するか、見物だね。」
と彼は呟いた。

2013年11月18日月曜日

赤竜 2 その19

 数時間眠ってから、オーリーはレインボウブロウを連れて桟橋へ行った。二人目の犠牲者が出てから二日たっていた。また人魚は海岸に近づくだろう、と彼女が予想したからだ。
「何故、人魚は人間を襲うんだ。今迄そんなことはなかっただろう。」
「あっても、気付かれなかっただけかも知れない。染色工場に入り込んだのは、偶然だろう。」
 珍しく彼女が理論立てた話し方をした。
「井戸の中でフィルターを見つけた。水がそっちへ吸い込まれるので、何があるのかと興味を抱いて、フィルターを破った。水槽に入り込み、警備員を見つけ た。警備員がソレを見つけて刺激するような行動を取ったかも知れない。ソレは彼を捕まえて、水中へ引きずり込んだ。彼は抵抗して、銃でソレを撃ち、傷付け た。ソレは怒って、彼を溺死させた。」
「釣り人も何か注意を引いたのか?」
「釣り針がそれを怒らせたのかも知れない。或いは、警備員に撃たれて人間に敵意を抱いたソレが、たまたま見つけた釣り人を襲ったのかも知れない。」

「被害者の喉を掻き切ったのは、ソレのヒレか?」
「多分、尾びれだろう。」
 桟橋に到着した。まだ人通りがあった。オーリーは借りた釣り道具を出して、準備した。レインボウブロウは情報収集と称して、その辺の人間に声をかけて回った。
「この辺りで大きな魚を見たって聞いたけど、あんた知らない?」
 大体そんな質問だった。そして空振りに終わった。まともでない返事をした男がいたらしく、彼女は少し怒ってオーリーの元へ戻った。
「あいつ、海へ叩き込んでやろうか。」
 オーリーが針に餌を付けながら、「どうした」と尋ねても、それ以上は何も言わなかった。多分、女だと見て、卑猥な言葉でも投げかけた奴がいたのだろう、と彼は想像した。
 夜半になると、人影がなくなった。オーリーは故意に海のモノの注意を引く目的で、時々懐中電灯で海面を照らした。静かな夜の海だ。魔物がいてもおかしくない雰囲気だ。
彼の後ろの地面に、魔物としか思えない娘が座り込んで、黙想にふけっていた。二人は会話をしなかった。事件はいつも被害者が一人の時に起こっている。波の音だけが聞こえてオーリーは睡魔に襲われた。
 彼がうとうとと体を揺らし始めた時、レインボウブロウは目を開いた。沖の方で声が聞こえた。初めて聞く声だ。人間の声ではない。歌っているらしいが、初 耳のメロディーで、人間の音楽とは思えない。彼女はオーリーを見上げた。背中をやや丸めて、男は居眠りをしている。手に持った懐中電灯が海面ではなく地面 を照らしていた。彼女はブルゾンを脱ぎ、地面に置いた。ジーンズのジッパーを降ろす時は、音を立てぬよう、慎重にゆっくりと動いた。歌声が潮の流れに乗っ て、少しずつ接近してくるのがわかった。座ったまま,レインボウブロウはジーンズを脱ぎ、全裸になった。それから、オーリーの手を下から静かに支え上げ て、電灯の光を海面に向けた。オーリーが目を覚まし、彼女の手に気付いた。無言で彼は後ろを振り返り、彼女を見た。彼女が顎で海を指し示した。
 オーリーは目を凝らし、光の輪を動かした。彼には暗い海面と暗い波しか見えなかった。しかし風の音に混ざって、何やら気味の悪い哀しげな声みたいな音 を、微かながら聞き取った。彼は釣り竿を掴み、釣り人らしく、リールを捲いて針を引き上げ、餌を付け直してもう一度仕掛けを投げた。遠くの方で仕掛けが水 に落ちる音がした。彼は、沖の声が止んだ様な気がした。さっきの仕掛けの音が、人魚の注意を引いたのだろうか。彼は後ろのレインボウブロウを振り返った。 彼女は海から身を隠すかのごとく、彼のバックに入り、獲物に飛びかかる野獣の様に片膝を立てて身構えていた。
 そこで初めて彼は彼女が人魚と対決するつもりだと気付いた。逮捕するのではなく、殺してしまうつもりだ。人魚の言い分を聞く寛容さは持ち合わせていない。彼は生け捕りたいと伝えたかったが、口を利くことが許されるのか、判断出来なかった。
 波の音が変わった様な気がした。彼が釣り竿をスタンドに置いた途端、ザッと水音がした。直ぐ近くだった。振り向くと、大きな黒い物体が空中に飛び出した ところだった。彼は無意識に背中の拳銃に手を伸ばした。彼を飛び越して、レインボウブロウが物体に飛びついた。二つの黒い固まりが、空中でぶつかる鈍い音 を響かせ、桟橋の上に落下した。
 オーリーは叫んだ。
「殺すな、レニー、生け捕りたい。」
 彼女の返事はイエスでもノーでもなかった。
「そこ、どいて!」
 彼女が怒鳴るなり、物体の大きい方がオーリー目がけて飛んできた。オーリーは慌てて身を引き、危うく海に落ちるところだった。投げられた物体の方は車のそばに転がり、頭を持ち上げて、「シャー」と言う音を発した。オーリーは懐中電灯を拾い上げ、それに光を当てた。
 醜怪な顔が電灯の光の中に浮かび上がった。タイを平坦にした様な魚みたいな顔が、鋭いノコギリ状の歯を剥き出して威嚇していた。目は大きく、魚みたいに 感情がない。髪の毛だけが人間的だ。濡れた髪の房が顔に降りかかっている。オーリーは見たくないものを見てしまった思いで、光の輪を移動させた。人魚の前 肢は人間の腕と手に似ていた。指の間に水かきがついているのと、爪が長いのが、特徴だが、肌も人間のものに似ていた。胸は平坦だ。人間が期待する乳房はな かった。雄かも知れない、とオーリーはこの際どうでもいいことを考えた。人魚の腰から下は、期待を裏切らず、魚だった。ピンと緊張して突っ立った尻尾は鋭 利な刃物みたいだ。レインボウブロウに投げ飛ばされて怪我をしたのか、額から黒い滴が流れ落ちた。
 レインボウブロウが立ち上がった。背中の翼を半開きにして、彼女も人魚を威嚇した。
「どうすれば、いい?」
 オーリーは手錠を出しながら、彼女に尋ねた。
「近づくな。」
とレインボウブロウ。
「あの尻尾で叩かれれば、あなたは切り刻まれる。」
「だが、捕まえなければ。」
「捕まえて、どうする?」
「どうするって・・・」
 見せ物にするのか?オーリーは自問自答した。これは動物なのか、それとも心を持った
生き物なのか。殺人犯に違いないだろうが、それは生きる世界が違うから、と言う理由だけなのでは?
 人魚は後退は苦手の様だ、少なくとも、地上では。何とかしてオーリーとレインボウブロウの防衛戦を突破して海に逃げ込もうと、隙を窺っていた。
 オーリーは思った、人間にこれ以上害を与えないと保証されれば、見逃してやってもいい、此の世で最後の人魚かも知れないのだから、と。
「通訳してくれないか、レニー。」
 はあ?と言いたげに彼女が振り返った。彼は続けた。
「陸の生き物に構うな、と言ってくれ。もう人間を襲わないと誓うなら、見逃してやる、と。」
「オルランド。」
 彼女が腹立たしそうに抗議した。
「私はこんな魚もどきの言葉など話さない。」

2013年11月15日金曜日

赤竜 2 その18

レインボウブロウはまだくたびれた顔で、窓から庭を見た。芝生が伸び放題だ。
「あなたは、絵本やディズニーのアニメの人魚しか想像出来ないのか?」
と彼女は苛ついた声で言った。
「と言うと、真実の人魚はあんな可愛いモノじゃないってことか。」
「可愛い人魚は人間が創りだした想像上の生き物だ。」
 彼女は瓶を口に当てて、水を飲み干した。
「上半身は確かに人間に似ている。腕があるし、胴と頭は首で繋がっている。髪の毛みたいな体毛もある。下半身は魚みたいだ。鱗とヒレがある。でも、性格は人間でも魚でもない。」
 彼女と人魚と、どっちが人間離れしているのだろう、と思いつつ、オーリーは立ち上がった。
「もし、鑑識が人魚だと断定したら、どうすればいいんだ?」
 彼女は現実的な答えを述べた。
「夜間は海に近づくな、と市民に警告を出せば?」
 そして地下室に向かって歩き始めた。
「何処かにもっと広いアパートを借りてよ、オルランド。」
「何の為に。」
「私もそこに引っ越すから。」

 魚類の専門家は鱗の正体を掴めなかった。
「シーラカンスに似ているって。」
 検死官に言われても、オーリーには何のことか解らない。ライリーだって古代から生きている魚の知識なんて持っていない。
「でもね、シーラカンスはアメリカ沿岸にはいないの。マダガスカル沖にいる魚なの。」
「そこは、つまり・・・」
「アフリカよ。」
「それは、人間を引きずり込む程強いのかい。」
「深海魚だって言ってたわ。それにシーラカンスに殺された人なんて、聞いたことないって。」
「じゃ、新種の魚だ。」
とライリー。新種の化け物さ、とオーリーは心の中で反論した。「赤竜」に描かれていた人魚は、ちっとも美しくなかった。魚の顔をした女もどきの半魚人、すっかり夢をぶち壊してくれた怪物。
「被害者の喉の傷はノコギリの歯で付いたみたい。一気にやったのね。」
 そうじゃない、とオーリー。人魚はノコギリなんか持っていない。そんな人魚がいたら驚きだ。危なかしくって、船にも乗れない。人魚の凶器は尻尾だ。固い魚のヒレは人間の柔らかい皮膚を切り裂く。
「染色工場と同じ犯人だとしたら、動機はなんだ。それに、工場には何処から入ったんだ。」
 ライリーはぶつぶつ言った。オーリーの方はもうそんな次元を越えていた。どうすれば、人魚の攻撃から釣り人やデートするカップルや海が好きな子供たちを守ることが出来るのだろう。
 勤務が終わってアパートに帰ると、そこにも鱗マニアがいて、彼のバスルームでビールを飲んでいた。
「イヴェインの家に帰ってやれよ。寂しがるだろう。」
 オーリーが注意すると、彼女はプイと横を向いた。
「あの子を独立させたい。一緒にいては、あの子が駄目になる。」
 彼はくたびれていたので、イヴェイン・カッスラーの将来についてこの場で論争する気力はなかった。居間を指さして、「ご主人様」として命令することに挑戦した。
「俺のバスルームだ。これから使う。出ていけ。」
 レインボウブロウは水から出て、ビショビショのまま床に下り、彼の目の前でブルブルと子犬の様に体を震った。お陰で彼は服を脱ぐ前に濡れた。
 彼がシャワーを浴びてさっぱりして居間に戻ると、彼女はテレビを見ていた。「楽しい釣り紀行」だ。ルアーでマスを釣る場面だった。オーリーは釣りを嫌いだと思ったことはないが、わざわざ道具を揃えて貴重な休日を水辺で一日潰す程の趣味でもなかった。
「釣りは好きか?」
とレインボウブロウに聞かれた時、彼は寝室に持ち込むビールを取りに冷蔵庫に向かっていた。
「嫌いではないな。」
「では、今夜、桟橋に行こう。」
 彼女は画面の中のルアーの動きを見ながら提案した。
「大きな魚を釣る。多分、あなたも釣り上げたい魚だ。」

赤竜 2 その17

カッスラー家にオーリーが立ち寄ると、当然ながら、イヴェインは仕事に出ていた。合い鍵で中に入ったオーリーは、居間の床の上にレインボウブロウが 倒れているのを発見して、ギョッとした。彼女は全裸だった。脚の付け根部分まで鱗に覆われた体を丸めて胎児の姿勢で敷物の上に転がっていた。彼はびっくり して彼女に駆け寄り、声をかけながら抱き起こそうとした。彼女が瞼を開き、かったるそうに返事をした。
「なに?」
「どうしたんだ、こんな所で・・・」
 オーリーに支えられたまま、彼女は周囲を見回した。それから、彼を見て、体を離した。
「油断した・・・」
と彼女は口の中で呟いた。床に散乱している衣服をかき集め、さっさと自分用にあてがわれた部屋に入って行った。オーリーはソファに座り込んだ。何があった んだ?レインボウブロウが自分の家でどんな恰好でどんな場所で寝ようが、彼女の勝手だが、イヴェインは気にしないのか?それに、レインボウブロウのお尻に は短い尻尾があった。
 レインボウブロウが新しい服を着て戻って来た。台所経由で水の瓶を持っていた。
「何の用?」
 何事もなかった様子なので、本当に何もなかったのだろう、とオーリーは思うことにした。それで、桟橋の死体の話を聞かせた。レインボウブロウは疲れた表情で時計を見た。
もう昼過ぎだ。自分でも呆れる程長い時間眠っていたらしい。
「首を切られていた?」
と呟いて、不愉快な顔をした。昨夜あれほど拒否したのに、イヴェインに喉を触られた。
犠牲者も、不愉快だったに違いない。
 オーリーが尋ねた。
「人魚は人間の喉を裂いたりするのか?」
「私は人魚の趣味なんか知らない。」
「だが、君は犯人が人魚だと、俺に示唆した。」
 彼女が小さく頷いたので、彼はやはり想像と推理がピッタリこなくて、困った。
「何故人魚が人を襲うんだ。」

赤竜 2 その16

 レインボウブロウは出口に向かって歩き始めた。
「フィルターの穴を通り抜けられる大きさ。爪を持っている。水の中に住んでいて、人間に興味がある。」
「何故興味があるんだ。」
「似ているから。」

 レインボウブロウが深夜もかなり更けた時刻に帰宅すると、居間の敷物の上でイヴェインが泣き疲れて眠っていた。同居人のお嬢様を怒らせてしまったと思い こんだのだ。レインボウブロウは彼女より小柄ながら、力は強かったので、彼女を寝室に運ぶつもりで、抱き上げようとした。彼女の背中に手を回すと、イヴェ インが目を開いた。無駄な労働はしない主義のレインボウブロウは声をかけた。
「起きて自分でベッドに行きなさい。」
 イヴェインは目の前の彼女を見つめた。彼女の黄色い目を見つめ、夢を見ているのかと思った。
「私のレニーは、人じゃない・・・」
と彼女は囁き、いきなり相手の後頭部に手を回して自分の方へ寄せた。キスの間、レインボウブロウは目を開いたまま、イヴェインの表情を窺っていた。彼女の 可愛いイヴが、何処まで正気なのか、見極めようと試みた。何時の間にやら、彼女はイヴェインの体の下になっていた。喉だけは触れられないように警戒しなが らも、愛撫を受け入れた。まだ未熟なテクニックだな、と思いつつ、早くこの家から去ってしまおう、と決心したのだった。

 オーリーはレインボウブロウが言った言葉を自分の頭の中で反芻してみた。冷たい血液を持っていて、鱗と爪があり、人間に似ている水の中の生き物。人間に似ている・・。
まさか、人魚が犯人だと言うのか?そんなモノが実在するのか?まだ大ウミヘビの方が現実的だ。人魚なんて。それに人魚は人を殺すのか?オーリーにはアンデルセンの「リトルマーメイド」のイメージしか浮かばない。
 電話が鳴った。刑事部屋に早朝にかかる電話は、事件の通報しかない。ライリーが電話に出て、話を聞く。オーリーは人魚のことを考えていた。ライリーが電話を置いて、振り返った。
「殺しだ。今度は桟橋だ。」
 現場は昨夜レインボウブロウが海に入った桟橋から余り離れていない場所だった。早朝に釣りに出ようとボートを出しに来た男が、海面に浮いている死体を発 見した。そっちも男だった。近くの岸壁に釣り道具が散乱しており、身分証から直ぐに身元が判明した。死体の肌はひっかき傷だらけで、致命傷はパックリと開 いた喉の傷だった。慎重に引き上げなければ、首がちぎれそうになる程、深くえぐられていた。
 深夜近くに男の叫び声を聞いたと言う通報もあった。喧嘩でもしているのだろう、と思ったカップルは、その時点で警察を呼ばなかった。自分たちのことで頭 がいっぱいだったからだ。ライリーは強盗に襲われたか、怨恨か、と考えたが、オーリーは人魚を想像した。あんなモノをどうやって捕まえたらいいんだ?
 検死の結果、死体の喉の傷は、刃物ではなく、少しギザギザした固く薄い物で付けられたのだろう、と判定された。被害者は近所の街から夜釣りに来ていた。 現場では常連だったが、他人とトラブルを起こしたことはなかった。被害者の裂かれた衣服に、銀色の鱗の破片が付着していた。
「大きな魚みたい。」
と検死官が言った。
「染工場での死体のそばにも落ちていたよね?海洋生物の専門家に見てもらうわ。」
 検死官はオーリーから鱗を預かった。レインボウブロウが川で見つけた鱗も持って行った。専門家がどんな分析をするのだろう、とオーリーは興味があった。ライリーは魚と殺人にどんな関係があるのか、と馬鹿にした態度で、検死局を出た。

2013年11月14日木曜日

赤竜 2 その15

 刑事には全く出番がない夜だってある。オーリーとライリーは刑事部屋で、ラジオを聞きながら、溜まった報告書の作成や、証拠物件の整理用タグ作りを、半 ば嫌々していた。そこへ、レインボウブロウが現れた。着替えて黒いTシャツにジーンズだ。刑事部屋では彼女は既に知られた顔だった。誰もが、「オーリーは イヴェインとレニーに二股かけている」と信じている。受付をフリーパスに近い状態で通り抜けた彼女は、オーリーの机のそばに近づいた。オーリーは旧式のタ イプライターに毒づきながら、書類を作成している最中だった。
「手入れをすれば、もっと軽く動く。」
 レインボウブロウの声に、彼は危うく指をキーとキーの間に突っ込むところだった。
「レニー、何だよ、こんな遅い時間に・・・」
 彼が文句を口に出すと、脇からライリーが真実を述べた。
「いつも遅い時間にしか来ないじゃんか。」
 確かに、レインボウブロウが警察署に顔を出すのは、オーリーの深夜勤務の時だけだった。彼女は周囲を無視して、オーリーに話しかけた。
「考えたのだが、私たちは思い違いをしていたらしい。」
 オーリーは顔を上げて彼女を見た。彼女は人前では必ずサングラスを掛ける。この時も、夜用の薄い色だが目の特徴を隠すことが出来る程度の茶色い眼鏡を掛けていた。
「思い違い?」
 オーリーが彼女の言葉を繰り返すと、彼女がもう少しだけ詳しく言った。
「大ウミヘビじゃない、と言うこと。」
 オーリーは素早く周囲を見回した。レインボウブロウの身体的特異性や、イヴェイン・カッスラーの復活は秘密だ。だから、染色工場での殺人の犯人が人間でないと言う考えすら秘密だった。相棒のライリーにさえ明かしていない。ライリーが
「蛇がなんだって?」
と尋ねたので、
「骨董品の置物の話だ。」
と誤魔化した。骨董品鑑定士、と言うふれこみのレインボウブロウは、オーリーに廊下に出ろ、と合図した。ライリーは骨董品にも彼女にも興味がなかったので、それきり首を突っ込んでこなかった。
 オーリーは彼女をコーヒーの自動販売機の前に連れて行った。そこにはベンチがあるのだ。二人は腰を下ろした。
「警備員を殺した犯人が大ウミヘビでない、と言う確証はあるのか。」
 レインボウブロウはいつも通りに遠回しに答えた。
「大ウミヘビは人間に興味がない。水の外にいる人間には無関心だ。」
「食い物に見えたんだろう。」
「犠牲者は食われていたのか?」
「否。」
「では、食べる為に襲いかかったのではない。犯人は人間に興味があった。」
「どんな興味だ。」
「触ってみたかったのだ。」
 オーリーは彼女のモノの言い方に慣れたつもりだったが、また苛々した。
「誰が、何故、警備員を襲ったのか、はっきり考えを言ってくれ。」
 レインボウブロウは大声を出されるのが嫌いだ。彼女は立ち上がって、「帰る」と言った。待て、とオーリーは彼女の手首を掴み、その冷たさにびっくりし た。今朝抱き上げて運んだ時も同じだったが、あの時は彼女が海で泳いだ後だったし、血の気を失っている様に見えたので、気にならなかった。思わず手を離し てしまった彼に、彼女が尋ねた。
「私の肌は冷たいか。」
「ああ・・・」
 オーリーは正直に答えた。
「血が通っていないみたいだ。」
「血は通っている。」
「知っているよ。怪我をすれば、君は血を流している。俺たちと同じ赤い血だ。」
 彼女自身の血液に関する話は唐突に打ち切られた。
「犯人も冷たい血を持っている。だから、警備員に触れた時、火傷したはずだ。人間の体温はソレには高すぎた。だから、ソレは警備員を水に引きずり込んで、 冷たくしようとした。人間は水中では呼吸が出来ない。当然彼は暴れ、抵抗した。ソレは彼を逃がすまいとしがみつき、死なせてしまった。」
「ソレとは、何者だ。」
「鱗がある。」

2013年11月13日水曜日

赤竜 2 その14

「動かないで、お願い。」
 イヴェインが囁いた。
「あなたの冷たい肌が好き。」
 彼女の頬が胸に押し当てられた。当惑したレインボウブロウは、彼女を拒否する代わりに注文を付けた。
「前は触らないで欲しい。背中にして。」
 彼女に愛撫されながら、レインボウブロウは死んだオーランド・ソーントンを思い出した。それから、ソーントンの前のオーランドを思い出し、そのまた前の オルランダを思い出した。そして人間は異形のモノを憎み、恐れる一方で、どうして固執するのだろう、と不思議に感じた。そしてオーランド・ワールウィンド には気の毒な結果になった、と同情した。冷たい鱗が好きな人間は、温かい人間の肌を愛せない。
 イヴェインの手が、鱗がない肩を撫でた時、レインボウブロウは頭の中を殴られたような気がした。彼女がいきなり起きあがったので、イヴェインは怒らせたのかと思って、不安そうに身を縮めた。
「レニー?」
 レインボウブロウの心は既にここになかった。
「思い違いをしていた。」
と彼女は呟いた。

2013年11月12日火曜日

赤竜 2 その13

イヴェイン・カッスラーが居間に出ていくと、オーランド・ワールウィンド刑事は既に勤務に就くべく出ていった後だった。珍しくレインボウブロウが夜だと言 うのに外出せずにソファに寝そべってテレビを見ていた。イヴェインはソファとL字形を形作るもう一辺の椅子に座った。レインボウブロウが見ているのはナ ショナルジオグラフィックで、爬虫類の特集だった。イヴェインは番組には興味がなかった。
「さっきは御免なさい。」
と彼女が恐る恐る話しかけた。
「あなたもオーリーも私を気遣ってくれているって、わかっていた。でも、素直になれなかったの。あなたたち以外の人は、私が旦那様の遺産を受け継いだこと を知ってから、友達になった。彼らの何処までが本心で、どこからが偽りなのか、私は解らない。毎日が緊張の連続で、誰を何処まで信じていいのか、混乱して いる。だから、あなたやオーリーの忠告を受けた時、感情の抑制が利かなくなったの。御免なさい、折角食事の用意までしてくれていたのに。」
 レインボウブロウは目だけ動かして彼女を見た。もう瞳孔は閉じて細くなっていた。
「あなたはまだ子供。」
と彼女が言った。
「だから、オルランドがあなたを愛していると気が付かないだけ。」
 イヴェインが姿勢を正した。
「彼がいい人だと知っているつもりよ。でも、今はそれだけ、お友達以上の気持ちを持てない。」
「では、彼にそう言えば・・・」
 レインボウブロウはあくまで他人の心に距離を保とうとした。だから、イヴェインが椅子から離れて、ソファの下の敷物の上に座り、レインボウブロウの鱗に覆われた胸を撫でた時、少しびっくりして、上体を浮かしかけた。

赤竜 2 その12

「彼が今度の日曜日に田舎へドライヴに行こう、て言うの。一緒に来てくれるかしら、レニー。」
 オーリーはびっくりした。イヴェインがもてるのはわかる。でも、どうして簡単にデートの誘いに応じるのだ。オーリーとのデートと同じ次元なのか?
 レインボウブロウがビールの瓶を片手に体を少しリズミカルに揺らしながら、イヴェインに言った。(彼女はこの日5本目のビールだった。)
「何故一人で行かない?」
「だって・・・」
 大柄な娘が目を伏せた。
「怖いの、私、男の人と二人切りになるのが怖い。」
 オーリーはハッとした。イヴェインは貧民街の出だ。彼女はかつて生活の為に体を売ろうとしたことがあった。実際に売ったのか、未だなのか、それは彼にはわからない。彼女は縄張り争いに巻き込まれ、喧嘩相手の娼婦たちの用心棒から暴行を受けて”死んだ”。
レインボウブロウに助けられた彼女は、「死」の記憶がない。しかし、男たちから酷い目に遭わされた記憶は心の何処かに残っているのだ。だから、彼女は男性に対して完全に心を許せないでいる。オーリーの様に親しくなった人間に対しても、やはり警戒してしまうのだ。
「嫌なら、行かなくてもいいじゃないか。」
とオーリーが言って、イヴェインの視線を浴びた。彼は思いきって彼女に言った。
「二人切りになれないのは、彼に対して信頼が持てないからだろう。それなら、焦らずにデートを断ればいい。その方が俺も安心出来る。」
「でも、次の日から仕事がやりにくくなるんじゃないかしら。」
「一回断られただけで、気まずくなるような相手は、なおさら駄目だ。」
 イヴェインは仕事がスムーズに出来るようにデートの誘いを受けたのだ。オーリーは少しだけ安心した。
「臆病になるなよ、イヴ。君は十分魅力的だ。職場の人間だけを相手にする必要なんかないんだよ。それに、現在の職場に何時までもいる訳じゃないだろう。もっと条件がいい所を見つけて転職すればいいんだ。」
 イヴェインは困って、いつもの行動を取った。即ち、レインボウブロウの顔色を窺ったのだ。
「ねえ、レニー・・・」
 レインボウブロウは6本目の栓を開けながら答えた。
「私は行かない。」
 イヴェインが唇を突き出した。
「二人とも、意地悪ね。私は遊びに行きたいだけなのに。」
 レインボウブロウが彼女を眺めた。酔いが回っているのか、瞳孔が開いて、黒目になっていた。
「誰とでも遊んでいいと言うものじゃない。」
と彼女がぴしゃりと言って、イヴェインとオーリーを驚かせた。
「あなたは、財産を持っているし、若くて美しい。だからこそ、友達は慎重に選ぶべきだ。誰があなたを一番大事に思っているのか、よく考えるといい。」
 オーリーは若いイヴェインがショックを受けたことを感じた。彼女は勢いよく立ち上がった。
「私は財産を下さいと言った覚えはないわ。愛されるって、どう言うことなのか、わからないの。優しくしてくれる人とドライヴして何が悪いの。」
 食堂から彼女は走り出して行った。オーリーは彼女の寝室のドアがパタンと閉まる音を聞いた。彼はレインボウブロウを見た。鱗がある娘はその日初めて食べ物らしい物を、アンチョビの欠片を口に入れたところだった。
「怒らせたぞ。」
「気になるなら、慰めに行けば。」
 彼女は冷めて固くなりかけたチーズを嘗めた。
「どうして、ウミヘビは工場の警備員を殺めたのだろう。」
と彼女は呟いて、オーリーに彼が警官であることを思い出させた。

2013年11月10日日曜日

赤竜 2 その11

 オーリーが目覚めて居間に入ると、レインボウブロウは既に起きていて、彼の為にコーヒーを入れてくれた。彼女自身は水、もしくはビールだ。彼が「お早 う」と言うと、彼女は「今日は」と訂正した。午後3時を過ぎていたから、確かに彼女が正しい。彼は席に着いた。レインボウブロウが「赤竜」を開いて、彼に 挿絵を見せた。
「こんな生き物を見たことがある?」
 鱗を持った長い体の怪物が波を潜ってのたくっている絵だ。
「大ウミヘビだな。子供の頃に絵本で見たよ。」
「本当にいるの?」
「まさか・・・」
 オーリーは笑ったが、彼女と視線が合うと、ハッとして笑うのを止めた。彼女は鱗があって、翼を持っている。
「いても不思議じゃないな。」
と彼は呟いた。
「その本の中の怪物や聖獣が本当にいない、と言う立証は誰もしていないんだから。」
 絵の中の大ウミヘビには小さな翼があった。意味がない程小さな翼だ。
「君はその鱗が大ウミヘビのモノだと思うのかい。」
 レインボウブロウはビニル袋の中の鱗と、新しい鱗を眺めた。
「我が一族のモノでないことは確かだ。」
と彼女が呟いた。彼女の一族が何者か、オーリーは尋ねたい誘惑にかられたが、我慢した。彼女は答えてくれないに決まっている。
「君はこんな生き物に出会ったことはないのか。」
 レインボウブロウは彼女自身に少しでも関係する質問には、必ず簡潔に答える。この質問も同じだった。
「ない。」
 そして時計を見た。
「イヴェインの家に帰る。」
と彼女が言った。
「たまには、彼女と夕食を一緒にしよう。あなたは、仕事なのか?」
「夜中から仕事だ。夕食くらいなら、つきあえるけど。」
「では、これから行こう。」
 それは、つまりのところ、車に乗せていけ、と言う意味だった。オーリーはシャワーを浴びて、服を着替えた。バスルームはレインボウブロウが使ったはずだったが、綺麗なままだった。むしろ、昨日より綺麗だ。彼女は自分の場所を掃除したに違いない。
 途中のスーパーマーケットで、買い物をした。と言っても、彼女はお金を持ち歩かないので、オーリーが支払いをしたのだが、ピザと果物とチョコレートケー キを買っただけだったので、大した額ではなかった。どっちが「ご主人様」なのだろう、と疑問を感じつつ、オーリーは紙袋を抱えて、レインボウブロウの後ろ に付いてイヴェイン・カッスラーの家に入った。
 イヴェインはまだ帰っていなくて、レインボウブロウは素早く室内を片づけ、食堂に夕食の準備を整えた。オーリーは果物を盛りつける役目だった。女主人が帰宅した時には、どうにかホームパーティーの体裁が出来ていた。
 イヴェインはレインボウブロウに抱きついてキスをしたが、オーリーには握手だけだった。いつになれば、気を許してくれるのだろう、と彼はスローテンポの恋に苛ついた。
「仕事は楽しいかい。」
 当たり障りのない会話が続き、やがてイヴェインが同僚の話を始めた。男性だ、とオーリーが意識した時、彼女はレインボウブロウに言った。

2013年11月9日土曜日

赤竜 2 その10

「ママに言いつけるぞ。」
 レインボウブロウが呟いた。
「ビール飲みたい。」
 ジルがドアから出ていった。
「警察の仕事も大変だと思うけど、妹の管理もしっかりやんなよ。」
 ドアが閉まった。オーリーが鍵をかけて戻ると、レインボウブロウは立ち上がって、台所に入って行こうとしていた。右手が脇腹を押さえているから、怪我は本当のことだ。
「俺に出来ることは。」
「バスルーム貸して。」
 彼女は冷蔵庫を開いて、バドワイザーの瓶を出した。栓をテーブルの角で抜いて、ラッパ飲みだ。どう言うべきかオーリーが考えていると、彼女が振り返った。
「早く寝たら。夕方からまた勤務でしょう。」
 また彼女のペースだ。オーリーは主導権を取りたかった。彼が「ご主人様」だと言ったのは彼女の方なのだ。
「寝る前に、君の報告を聞きたいね。海だか川だか知らないが、何か見つけたのか。それに、その脇腹の傷はどうした。」
 レインボウブロウは椅子を出して座った。
「川で穴を見つけた。例の工場の井戸に続いていた。中には何もいなかった。」
 彼女は一枚の靴べらに似た鱗を出した。
「穴から川に戻ったところで、岩に引っ掛かっていた。」
 オーリーは鱗を受け取った。ビニル袋に入れた鱗と比較すると、ぴったりだった。
「持ち主はいなかったのか?」
「いなかった。多分、川か海にいるのだろう。」
「何だろう。」
「知らない。」
「その傷はどうしたんだ。」
「パイプの角で引っ掛けた。」
 すぐ治る類の傷らしい。彼女は数ヶ月前に銃弾を2発食らったことがある。その時も2,3日で治ってしまった。オーリーは薬箱を出してテーブルに置き、寝室へ向かった。
「イヴェインに連絡してやれよ。明け方になっても君が帰らないのでは、心配するだろう。」

赤竜 2 その9

明け方近くにレインボウブロウは戻ってきた。オーリーは車内で寝ていた。イヴェインとの電話での会話で満足してしまったのだ。レインボウブロウは海から上 がると、体をブルブルと震って水滴を落とし、車に近づいた。オーリーを眺め、それからブイに戻って、服を身につけた。髪を指で撫でつけてから、車に戻り、 窓をコツコツと叩いた。オーリーが顔をしかめたが、目覚めなかった。彼女は東の空を見た。白みがかっている。もうすぐ太陽が昇って来る。彼女はドアを開い た。
「起きて、オルランド。」
 鋭い声で怒鳴られて、オーリーがビクッと上体を起こした。
「レニー・・・戻ったのか。」
 手で顔をこすって眠気を拭い去ろうとしている彼の隣に、彼女は滑り込んだ。
「私も休息が必要だ。あなたのアパートに行こう。」
「ああ、ちょっと待って。」
 オーリーは必死で眠気を払う努力をした。首を振っていると、彼女の方は体の力を抜いて目を閉じた。疲れている。一晩泳いでいたのだ。無理もない。
 オーリーはエンジンをかけ、車を出した。彼女には声をかけないようにして、運転に精を出した。
 アパートに帰り着いた時には既に太陽はかなり高くなっていた。オーリーは建物の前のいつものスペースに駐車して、助手席を振り返った。そして、ドキリとした。レインボウブロウのTシャツに赤い血が滲んでいた。また怪我をしている。右脇腹だ。
「レニー、動けるかい。」
 彼が声をかけると、彼女は瞼を薄く開いた。小さく首を振ってまた目を閉じた。仕方がない。彼は車外に出ると、助手席側に回り、彼女を抱き上げた。小柄な ので、軽いのが救いだ。彼女を抱いたままで一気に階段を駆け上った。部屋の前で鍵を出そうと奮闘していると、隣室のジル・ロビンソンが顔を出した。
「何しているの、オーリー。」
「鍵をポケットから出そうとしているんだよ。」
 レインボウブロウを肩に担げば楽なのだが、彼女は怪我をしている。ジルがオーリーの腕の中の娘を覗き込んだ。
「誰なの。」
「妹」
 咄嗟に出た嘘だ。ジルはブロンドのオーリーと漆黒の髪のレインボウブロウを見比べた。オーリーにはそんな悠長なやりとりをしている心の余裕がなかった。自分の腰をジルの方に突き出した。
「このポケットの中から鍵を出して開けてくれないかな。」
「いいわよ。」
 ジルは言われた通りに鍵を出してドアを開けた。そしてオーリーが中に入ってレインボウブロウをソファに降ろすところまで付いてきて見ていた。
「この子、どこか具合悪いの?真っ青よ。」
 レインボウブロウが青白いのは元からだ。だが、この時は唇まで血の気が失せて白かった。彼女がただの女性なら、オーリーは医者を呼んでくれとジルに言う ところだ。しかし彼女は鱗がある。背中にはコウモリみたいな翼まで付いている。オーリーがどうしたものかと迷った時、レインボウブロウ当人が目を開いて、 彼に声をかけた。
「ビール」
「はあ?」
 すると彼女はいきなりアルコール臭の強い息を吐き出した。ジルが顔を引っ込めた。
「なに、この子酔っぱらっているのね。」
 オーリーはそれに調子を合わせた。
「そうなんだ、海岸で朝迄飲んでいてね。やっと見つけて連れ帰ったんだ。」
 そしてレインボウブロウに囁いた。

赤竜 2 その8

「あら、オーリー」
とイヴェインの明るい声が聞こえてきた。オーリーは嬉しくなった。
「もう寝ているかと思った。」
「それなのに、電話をかけたの?何かあったの?」
「否、何もない。退屈だからかけているんだ。いいかな、少しお喋りしても。」
「いいわ。」
 電話だと、イヴェインは愛想がいい。
「今お仕事中なの?」
「勤務は明けた。でも、少し調べたいことがあってね。」
 レインボウブロウに手伝わせているとは言いたくなかった。イヴェインにとって、彼女はあくまで主人だ。刑事の手伝いをしていると知ったら、オーリーはもう口を利いてもらえなくなるだろう。
「君は何をしているの。」
「紙人形を作っているところよ。」
「面白いかい。」
「ええ、今野菜に手足を付けた人形をグループで作っているの。私の担当はニンジンの姉妹よ。」
「まさか、レニーを待って起きているんじゃないだろうね。」
「違うわ。彼女はいつも明け方に帰るのよ。待っていたら、眠る時間がなくなるわ。」
「それなら、良かった。」
 イヴェインはレインボウブロウが去ることを恐れている。だから、彼女が昔通りの生活習慣を続けることに異議を唱えない。顔を合わせる機会が少なくても、 同じ家に彼女が住んでいると言うだけで、イヴェインは安心出来るのだ。イヴェインは寂しいのだ、とオーリーは感じた。不遇な子供時代、殺される危険を呼び 込んでしまった娼婦稼業、女中生活、主人ソーントンの非業の死。イヴェイン・カッスラーは本当の安らぎを知らない。だからレインボウブロウが得体の知れな い人物であっても、自分を守ってくれるのだと信じて頼り切っている。オーリーは彼女の信頼をレインボウブロウから彼に向けたいと切に願った。

2013年11月5日火曜日

赤竜 2 その7


 勤務交代を済ませると、オーリーは大慌てでファーストフードを買い込み、海岸へ走った。レインボウブロウを降ろした桟橋に近づくと、彼女がブイに座って 海面を眺めているのが見えた。彼が車を停めて外に出ると、彼女は振り向かなかったが、耳だけ、こちらへ向けた・・・と彼には思えた。
「イヴェインには何て説明したんだい。」
 彼が近づくと、彼女は「別に」と言った。
「彼女は私が夜出かける習慣を知っている。昼間から出ていることもあるから、気にしないはずだ。」
「電話くらい掛けてやればいいのに。」
 レインボウブロウは両手を広げて見せた。
「お金は持ち歩かないのだ。」
「・・・」
 言い返せない。その件はこれで終わりだった。オーリーは彼女の横に立ったまま、食事の袋を開いた。
「魚のフライ、ハンバーガー、フレンチフライ、好きなだけ食っていいぞ。」
 差し出された袋に、レインボウブロウは目もくれないで、そのくせ、手だけ伸ばして魚のフライが入った小袋を取り出した。そして二口、三口食べると、残りを返品した。彼女がそれ以上食べるのも、魚以外の物を口に入れるのも、オーリーはまだ見たことがなかった。
「いつも少ししか食わないのか。」
「食事は・・・に一回。」
と彼女は小さく呟いてから、立ち上がった。それから桟橋の周囲を眺めた。ボートが二隻係留されているだけで、他に人はいない。もう少し早ければデートする 人々やローラースケートを楽しむ若者が大勢いたのだが、遅い時刻なので誰もいない。波の音と遠くの道路から聞こえて来る車の騒音だけがBGMだった。その 夜は月が明るく、街灯の明かりを頼らなくても外を歩ける程だった。満月だ。オーリーは満月が好きでない。警官はみんな好きじゃないだろう、と思う。満月の 夜は凶悪犯罪が多発するのだ。
 彼女がTシャツを脱いだ。ジーンズも脱ぎかけたので、オーリーは慌てて体の向きを変えた。鱗だらけでも、女性の体だ。見てはいけないはずだ。
「服をここに置いておくから、見張っていて。」
 彼女に言われて振り返ると、彼女は既に桟橋から海に飛び込むところだった。
「何処へ行くんだ。」
 オーリーが怒鳴ると、彼女は海面に顔を出した。
「川を遡ってみる。」
「川、それなら、車で・・・」
「駄目。何処から井戸に入るのかわからない。海から順番に見ていく。」
「しかし、レニー、こんな夜に・・・」
 彼女の能力について、まだ何も知らない。彼女が人間ではないかも知れないと思ってみても、やはり普通の人間の女性に対するのと同じ気遣いをしてしまうオーリーだ。彼女は沖に向かって移動しながら、
「夜だからこそ・・・」と言い、やがて水中に没した。
 オーリーはブイに座って、海を眺めながら食べ続けた。寂しいものだな、一人きりの食事は。油でべたべたになった指を嘗め、紙で拭いて、袋を丸めて車に投げ入れた。それからまた海を見たが、5分もすると飽きてきた。
「何時までここにいればいいんだ、レニー。」
 いない相手に苦言を呈しながら、彼は携帯電話を出した。自然に指はイヴェイン・カッスラーの家の番号を押していた。

2013年11月3日日曜日

赤竜 2 その6

「それじゃ、魚が入り込めば、見えない?」
 オーリーの質問にディックが声をたてて笑った。
「井戸に魚がいればね。」
 レインボウブロウは黙って空っぽの水槽を見下ろした。それからパイプを眺め、目で辿って井戸らしき場所を確認した。それらの彼女の目の動きはサングラス で隠されていたので、誰にもわからなかったが、オーリーだけは彼女が何かを見つけようとしているのだと知っていた。
「フィルターの穴を見せてもらえますか。」
 いきなり彼女が声をかけたので、男たちはびっくりした。ライリーは彼女の存在を忘れていたし、ディックは気づきもしなかったのだ。オーリーが慌てて紹介した。
「鑑識官のミズ・レニーです。」
 ライリーが何か言いかけて口を開いたが、レインボウブロウが澄まして会釈したので黙り込んだ。ディックは彼女が握手をしないのは、それまで無視されていたことが気に入らないのだろう、と思って、急いで刑事たちをポンプ操作室の脇の道具入れに案内した。
 フィルターは大きな丸い金属製の物で、細かい編み目に細かい泥やゴミが付着していた。直径1メートルはあるフィルターの三枚ともに、直径30センチメー トルほどの楕円形に近い穴が開いていた。レインボウブロウは網を観察した。ゴミで汚れている面を撫でて、ディックに尋ねた。
「こっちが井戸の方を向いている面?」
「そうです。」
 彼は穴の縁を指さした。
「井戸の方向からぶち抜いた様な感じでしょう。何かが突き破ったみたいだ。でも、何だろう。井戸に生き物なんかいないはずなのに。」
「井戸の中を見たことがあるの?」
 レインボウブロウは答える時は曖昧なくせに、質問は鋭い。ディックが肩を竦めた。
「それがないんだ。外からは遮断されている地下にあるし、入る為の階段も長いこと使われていない。入る時は、ガス検査をしなければ危険だしね。」
 オーリーは彼女が眼鏡越しに彼を見たことに気付いた。井戸の中に何かいてもおかしくない。彼女みたいな不思議な存在が。

2013年11月1日金曜日

赤竜 2 その5

相棒のライリーは大柄な女性が好みだったので、レインボウブロウのことをいつも「ちっこい小娘」と陰で呼んでいた。オーリーが彼女を現場に連れて行くと言った時も
「ガキの遊びじゃないんだぜ」と文句を言った。オーリーは何故彼女を同伴しなければならないのか、上手く説明出来ないでいた。すると、彼女の方が機転が利いたので、
「海岸へ行くついで。」
と言い訳した。
「工場が海のそばだと聞いたので、乗せていってもらうことにした。」
 ライリーはオーリーを横目で見た。
「おまえのターゲットはイヴェインの方だと思ったんだけどな。」
 ライリーはイヴェインを乗せた方が嬉しいのだ。レインボウブロウでは会話が続かないので、退屈させられる。それでも、結局彼女を乗せて事件現場へ走っ た。走行中は彼女が後部席で大人しくしていたので、彼は彼女の存在を忘れてオーリーと世間話をした。刑事だって、四六時中仕事の話ばかりしていられないの だ。
 染色工場は操業を停めていた。貯水槽の水を抜いているので、仕事が出来ないのだ。給水係の男が刑事の相手をした。
「井戸からタンクまでの間のフィルターが三つとも穴が開いちまってね。」
 地下から水を汲み上げる太いパイプを見せながら、ディックと言う係は言った。
「取り替えなきゃ、仕事が出来ないんだ。今大急ぎでフィルターを届けさせているところなんだ。」
 大きな丸い二重構造のコンクリート製タンクはすっかり乾いてしまって、底に泥が白く固まっていた。
「あんなに泥が入り込むものなのかい。」
「いいや、フィルターが壊れたからだよ。このタンクの水は普段は透明で綺麗なものさ。気温の高い日には泳ぎたくなるほど綺麗だぜ。」
「昨日も綺麗だった?」
「昨日は大雨の後だったろう、そんな時は井戸も濁るんだ。うちの井戸は川に近いからね、水が混ざるんだろう。フィルターでも濾しきれない細かい泥が入り込む。白く濁っていた。」

2013年10月29日火曜日

赤竜 2 その4

「鱗?」
 レインボウブロウは自分の肉体の話題は好きでない。ちょっと不機嫌そうに答えた。
「魚ではないのだ、剥がれたりしない。」
「つまり、ワニやトカゲみたいなモノだな。」
言わなくて良いことを言ってしまったと気付いた時には、顔に水を引っ掛けられていた。「下等なモノと一緒にするな、私はD・・・」
と言いかけて、レインボウブロウは言い直した。
「失礼な・・・」
「御免よ。」
 彼女は何を言いかけたのだろう、と思いつつ、オーリーは慌てて本題に入ることにした。
「昨夜、市の南にある染色工場で殺人事件があった。警備員が殺されたんだが、現場にこんなモノが落ちていた。」
 彼はポケットからビニル袋に入った銀色の物体を出した。大きさは大人の男性の親指ほどだ。靴べらの様にも見えた。レインボウブロウがそれを手にとって眺める間にハンカチで顔の水滴を拭った。
「靴べら?」
と彼女が間の抜けた質問をした。
「そう見えるのかい。」
「何を言って欲しい訳?」
 オーリーは彼女の手から袋を取り返した。鱗がある人間から”靴べら”と宣告を受けた物体は、薄くて、靴べらとしての役割を果たせないように思えた。
「俺には靴べらに見えない。鑑識も魚の鱗じゃないかと言っている。」
「だったら、鱗でしょ。」
「どっちなんだ。」
「どっちだと言って欲しいの。」
 オーリーはレインボウブロウの物の言い方がいつも曖昧なのだと、思い出した。彼女はちゃんと彼が知りたいことを言っているのでは?
「鱗でできた靴べらなのか?」
「他に鱗の用途がなければね。」
 オーリーは考え込んだ。
「警備員が靴べらを持っていていけない、と言う規則はない。だが、不自然だ。巡回にそんな物を持っていくなんて。」
「警備員は射殺されたのか?」
「違う。」
 彼はレインボウブロウを見た。
「貯水槽で溺死していた。全身に爪の様な物で引っかかれた様な傷が付いていて、彼は何かに引き込まれて抵抗したみたいだ。拳銃がタンクの外に落ちていて、一発発射されていた。」
 レインボウブロウがもう一度彼の手から袋を受け取った。鱗を照明の光に透かして眺め、尖った爪で鱗のサイドをビニルの上から突いた。
「ここに、傷がある。銃弾で剥がれ落ちたのだ。」
「すると、犯人の物か。」
 オーリーは自分の推測が支持されて満足した。しかし、これが犯人とどう結びつくのかは、解らなかった。
「犯人は鱗があるんだな。」
 鱗がある娘は否定も肯定もしなかった。
「現場に行ってみなければね。」
と言ったのだ。

2013年10月28日月曜日

赤竜 2 その3

オーリーは殆ど自宅みたいな感覚で冷蔵庫を開き、コーラの瓶とエヴィアンの瓶を出した。グラスに注いでいると、レインボウブロウがTシャツとジーン ズを身につけて現れた。オーリーはグラスを両手に持って、居間に入った。ソファに向かい合って座り、水を彼女に、コーラを自分の前に置いた。彼女は水しか 飲まない。正確には、水とアルコール類だけだ。
 オーリーは彼女の体を眺めた。若い女性の体、モデルみたいな細いプロポーションだが、彼女はその綺麗な肢体を外に出したがらない。外出は主に夜間で、昼間はプールの中にいる。その理由の一つは彼女の肌にあった。
「君の鱗は剥がれ落ちることはある?」
 レインボウブロウの表皮は胸から下が鱗状になっている。下は何処までがそうなのか、オーリーはまだ見たことがない。腕は肩のすぐ下迄が鱗だ。Tシャツで隠れる範囲だ。
初めは鱗状のデザインのシャツだと思った程、薄くて柔らかい鱗だ。赤みがかった銀色で、オーリーは嫌みのない色だと思っている。

2013年10月27日日曜日

赤竜 2 その2

 何者なのか、レインボウブロウはオーリーにもイヴェインにも自分の正体をまだ明かしていなかった。明かす必要に迫られていないので、尋ねられてもはぐら かすだけだ。彼女は大抵イヴェイン・カッスラーの小さな一戸建ての家の地下に自分で掘った小さなプールの中にいた。イヴェインは洗濯機の横の小さなドアに 気付かなかった。ドアは暗い場所にあったし、普段は汚れ物を放り込む大きなバスケットが前に置かれていた。それに、昼間のイヴェインはバス停3つ向こうの アンティークを扱う店で帳簿係の仕事をしていたので、留守番役のレインボウブロウが何をしているのか知らなかった。イヴェインにとって、彼女は命の恩人 で、亡くなった旦那様のお嬢様で、ご主人様だった。オルランド・ソーントンの遺産を全て相続したのはイヴェインだったが、彼女はレインボウブロウの召使い のつもりでいた。
「やっぱり、私はここを出ていった方がいいと思う。」
とレインボウブロウがオーリーに言った。オーリーは時々カッスラー邸に無断で入り込んだ。レインボウブロウが合い鍵をくれたからだ。イヴェインはレインボ ウブロウが主人だと信じているから、彼女が誰を家に入れようが、文句を言わない。オーリーはイヴェインが仕事に出かけている時間帯にやって来て、地下の洗 濯場の壁の向こうにあるレインボウブロウの秘密のプールを覗くのだ。
 レインボウブロウはタイルの岸辺に頭を預けて、水の中に体を沈めていた。水は冷たい。とても人間が長時間入っていられる温度ではないのだが、彼女は平気で何時間でもそこに浸っていた。オーリーはプールサイドに置かれたパイプ椅子に座って、彼女と話しをした。
「イヴェインに正体を掴まれそうなのかい。」
「そうじゃない、私がいると、彼女はいつまでも召使いのままだ。折角財産をもらったのに、使うことすら躊躇う。このままでは、恋も出来ないだろう。」
 確かにそうだ。オーリーはイヴェインが好きだ。何度かデートに誘ったが、イヴェインは必ずレインボウブロウの許可を取るし、彼女を同伴したがった。潤ん だ目で見つめられて「付いてきて」と言われると、レインボウブロウも断り切れない。結局三人デートになる。そして、食事が終わるとレインボウブロウはいつ もこっそり消えて、オーリーに任せてくれるのだが、彼女がいなくなったことに気付くとイヴェインは急に用心深くなって、オーリーに友達以上の付き合いを許 してくれなかった。
「でも、ここを出て、何処に行くんだ。」
 オーリーの住まいは狭いアパートだ。レインボウブロウは数回泊まったが、その度にバスルームが狭い、とこぼした。彼の部屋に居着くことはないだろう。
 レインボウブロウは何につけても具体的な話をするのが好きでなかった。さっさと話題を変えた。
「ところで、今日は何の用?」
「ああ、また殺人事件なんだ。」
 オーリーは遠慮がちに言った。彼女の黄色い目がじっと彼の顔を見ている。彼女の目は人間の目とは異なり、虹彩がない。黄色い眼球の真ん中に猫みたいな細 長い瞳孔がある。光の具合で広がったり細くなったりするのも、猫と同じだ。その目で見つめられると、オーリーは彼女には真実しか話してはいけないのだと感 じてしまう。
「それはあなたの分野ではないの。」
 オーリーは市警の刑事だ。殺人事件でもこそ泥でも、なんでも担当する2級刑事だ。聞き込みも報告書作成も自分でする。取り調べだけは一人でさせてもらえないが、一応本物の刑事だった。
「俺の持ち場さ、勿論。でも、君の意見を聞きたくてね。」
 レインボウブロウは顎でドアを示した。
「居間で聞こう。先に行ってて。」

赤竜 2 その1

 ハルは懐中電灯の光を貯水槽の水面に這わせた。乳白色に濁った水が小さく波打って揺れていた。さっき、確かに水音がした。魚が跳ねた様な音だ。そんなは ずはない、ここの水は3重の濾過装置を通してゴミを取り除いている。今夜は濁っているが、それは夕方の激しい雷雨のせいで、いつもはもっと透明に近い。魚 なんて、入り込む余地などないのだ。
 気のせいだ、とハルは自分に言い聞かせた。昨日テレビで見た「アビス」って映画の影響に違いない。或いは、子供時代に見て、海が嫌いになった「ジョーズ」のせいか?
彼が貯水槽に背を向けた時、またパシャッと水音がした。ハルは振り返った。間違いない、何か生き物が入り込んでいる。それが何であれ、ポンプに吸い込まれ て工場への送水がストップしたら、ハルの責任だ。まだクビになりたくなかった。彼はもう一度、水面を電灯の明かりで照らした。何かが光った。銀色の鱗だ、 と彼は思った。網ですくえるだろうか。彼は事務所へ行こうと、水に背を向けた。水面が動いた。彼は殺気を感じて、振り返ろうとした。何かが水から飛び出 し、彼に飛びかかって来た時、彼は腰の拳銃を掴もうとしていた。

2013年10月17日木曜日

赤竜 1 その35

「よくも私を撃ったな。」
 彼女は軽く床を蹴り、フワリと宙に浮かび上がった。クーパーが無我夢中で銃を撃ち続けた。ビッテンマイヤーが叫んだ。
「止めろ、災いはこちらに来る!」
 レインボウブロウの翼が二回羽ばたき、クーパーと老人が大声を上げながらオフィスへ逃げ込んだ。彼女が追いかけ、ドアが閉まった。オーリーはイヴェイン をテーブルに戻して、彼らを追いかけた。彼がドアノブを掴んだ時、オフィスで凄まじい人間の声が上がった。断末魔の悲鳴、と言う表現がピッタリの、恐怖と 絶望に満ちた叫びだった。オーリーは夢中でドアを開いた。
 同時に、オフィスの通路側のドアが破られ、下にいた警備員が駆け込んで来た。
「何があったんです、ミスター・・・」
 彼は室内の光景に絶句した。オーリーも立ち竦んでしまった。
 割れた窓ガラスの下で、クーパーが倒れていた。正確にはクーパーの胴体と手足だけだった。首から上はなかった。ガラスに血がベッタリと付いていた。クーパーの横で、車椅子に座ったビッテンマイヤーが放心状態で死体を眺めていた。

 警察はオーリーの説明にあっさりと納得した。クーパーのオフィスの続き部屋には大量の阿片系の麻薬が隠されており、イヴェインは煙を吸わされて昏睡状態 になっていた。クーパー弁護士とビッテンマイヤーは自分たちの麻薬所持がオーリーに見つかりそうになったので、オーリーを始末しようと図ったが、そこで二 人の間で意見の相違が出来た。
二人も麻薬の煙を吸っていたので、感情に抑制が利かなくなり、諍いが高じて互いを窓に押しつけ遭って争った。そして、ガラスが割れて・・・。
 警備員の証言も、オーリーを助けた。彼は階下の監視モニターでビル内を見ていた。弁護士の部屋は全て映し出されている訳ではない。依頼人のプライバシー を守らねばならないし、弁護士たちも常時監視されるのを嫌ったので、カメラは入り口と部屋のごく一部しか撮さない。警備員はクーパー弁護士とビッテンマイ ヤー社長がもみ合いながら続き部屋から出て来るのを見た。二人が銃を持っていたので、ただ事ではないと判断して、エレベーターに飛び乗った。彼がドアを 破ってオフィス内に駆け込むと、続き部屋からワールウィンド刑事が飛び出して来たところで、窓が割れてクーパーが倒れていた。そのすぐそばにビッテンマイ ヤーが茫然自失状態でいたのだ。
「社長がクーパーさんを椅子で衝いたんだ、きっとそうに違いない。クーパーさんは転んだ場所が悪かった、運が悪かったんだ。」
 検死官が路面に叩き付けられたクーパーの頭部を調べていた。オーリーは仲間から解放され、救急車の所へ行った。イヴェインが搬送されようとしていた。
「彼女は助かりますね。」
 楽観的希望を言うと、救急隊員が頷いた。
「煙で気絶しているだけだろう。注射や経口摂取じゃなければ、すぐ良くなるさ。」
 彼はもう一台の救急車を顎で示した。
「あっちの方が難しいだろうな。」
 そこではビッテンマイヤーが駆けつけた他の社員や弁護士に囲まれていた。まだ正気に返っていなかった。
 救急車を見送り、オーリーが自分の車を置いた場所に戻ると、レインボウブロウが黒いレザーブルゾンを羽織って、車体にもたれかかって月を眺めていた。彼が近づいても動かなかった。
「助けてくれて有り難う。」
とオーリーは声をかけた。
「何のこと。」
と彼女が月を見上げたまま言った。
 オーリーは彼女の横に位置を取り、自分も車体にもたれた。
「君が13階でイヴと俺を助けてくれたことだよ。」
「私が?」
と彼女はとぼけたが、オーリーは彼女の胸や腹部に血が滲んでいるのを見てしまった。そして、彼女の鱗状のTシャツが、Tシャツではなくて、彼女自身の皮膚なのだと初めて気が付いた。
「撃たれたんだろう。」
「直ぐ治る。毎度のことだから。」
「でも、手当しなきゃ。」
 レインボウブロウは首を振っただけだった。そしてやっとオーリーを見た。
「あなたの名前はオルランドと言う。」
 分かり切ったことを言われて、オーリーは面食らった。
「オーランドと発音するけど、綴りは同じだね。」
「私はオルランドを愛していた。」
「知っている。」
「ずっと、ずっと、愛していた、2000年以上前から・・・彼の地がガリアと呼ばれていた時代から・・・」
 世迷い言とは思わなかった。それは事実なんだ、とオーリーは知っていた。何故なのか知らないが、レインボウブロウが語ることが真実だと知っていた。
「君は何人のオルランドと暮らしてきたんだい。」
「何人だろう・・・」
 彼女はまた月を眺めた。
「オルランド・ソーントンはもう長くないことを知っていた。次のオルランドが現れるのを待つことが出来ないことも知っていた。だから、私が魂の清らかさに 惹かれて拾って帰った娘を繋ぎの継承者に指名した。彼自身の死が真の継承者を呼び寄せることになるとも知らずに。」
 オーリーは彼女と視線を合わせた。彼女が古い箱を差し出した。
「これはあなたが継承する物だ。」
 オーリーは箱を見つめた。
「何故、俺が選ばれるんだ。」
「選ばれるのではない。決まっていた、最初のオルランドがこれを手に入れた時から。全ての彼の子孫に、オルランドの名前を継ぐ男女に、これは受け継がれる。」
「俺が最初のオルランドの子孫?ソーントンと血縁関係があると言うのか?」
「今風に言えば・・・」
とレインボウブロウはさらりと説明した。
「DNAの何処かに一致する部分がある。3代前か、10代前か、もっと前に同じ先祖を持っているのだろう。」
「君にはそれがわかるってか?」
「私の鑑定ははずれたことがない。」
「鑑定と言えば・・・」
 重要なのかくだらないことなのか、定かでないものが残っていた。
「ソーントンが買ったタンスの抽斗にあった宝物って、何だったんだ。」
 レインボウブロウが初めて微笑らしき表情を作った。
「ラテン語で書かれた古い育児書。」
「それが、君とソーントンの出会いのきっかけだって?そもそも、君は何者なんだい。」
 その時、現場検証を終えた警官たちが撤収を開始した。
「オーリー、おまえも早く帰れよ、明日この事件の詳細を報告書にまとめてもらうからな。」
 同僚に言われて、オーリーは手を振って「承知した」と応えた。
 レインボウブロウが車体から身を起こした。少し顔をしかめた。
「ああ、久々に鉛弾を食らうと、体が動かしにくい。」
 オーリーも立ち上がって彼女を支える様に腕を彼女の背中に回した。
「やっぱり手当をするべきだよ。俺のアパートに来い。」
 彼女は素直に頷いた。
「いいよ、行っても。今からご主人様はあなたなのだから。でも、その前に・・・」
 彼女が彼の顔を見上げた。オーリーは見つめられてドキドキした。
「何だい。」
 彼女が甘えた声で囁いた。
「あなたのバスルームのバスタブ、もっと大きいのに替えられないのか?伸びをしたら、翼がはみ出すのだけど・・・」

    終わり

2013年10月15日火曜日

赤竜 1 その34

「防弾ガラスも大したことなかったじゃないか。」
 オーリーはまだ膝ががくがくしていたが、それでも無防備な弁護士を足止めする程には狙いを定めることが出来た。
「さあ、イヴェイン・カッスラーをここに連れてきてもらおうか。ついでにソーントンの書斎から盗んだ本も持って来させるんだ。」
「本?」
 クーパーが振り返った。
「君はあの本が何かわかっているのか。」
「”赤竜”、魔法の教典だろ。」
「ただの”赤竜”じゃない。」
 クーパーは歩きだそうとした。オーリーが「動くな」と命令すると、彼は反論した。
「イヴェインに会いたくないのか。」
 クーパーはオフィスの続き部屋のドアまで歩いた。
「あれは製本技術が出来る以前の書物だ。恐らくは最古の”赤竜”、原本だ。」
 彼はドアノブを掴んだ。
「私の祖先は侵略に遭い、故郷を追われた。一度は侵略者を壊滅状態にまで追いつめたのだ。しかし、”赤竜”を持った一人の男に敗退した。」
 クーパーがドアを開こうとしたので、オーリーは狙いを定めたまま、「ゆっくりだ」と警告した。クーパーは素直にゆっくりとドアを開いた。
 クーパーのオフィスよりやや狭い部屋だった。何の為の部屋なのか、オーリーにはわからなかった。そこには祭壇が設けられ、干涸らびた棒の様な物が火を灯 した蝋燭に囲まれて祭られていた。祭壇の前の白いクロスを掛けたテーブルの上にイヴェインが横たわっていた。死んでいるのかと、オーリーは一瞬ドキリとし たが、彼女の胸が小さく上下するのを見て、安堵した。
「彼女を生け贄にするつもりか。」
「そのつもりだったが、生け贄は処女と決まっている。売春をした経験のある黒人では役不足だ。」
 テーブルの向こうに老人がいた。車椅子に乗った白髪の男をオーリーは知っていた。このビルと法律相談所のオーナー、ウィリアム・ビッテンマイヤーだ。そいつがクーパーに言った。
「ソーントンが育てていた娘はどうした。あの人でなしが人前に出さずに大切に養った女だ。あいつも”赤竜”の力を解放する生け贄を自前で育てていたのに違いない。」
 オーリーは老人の膝の上に箱が載っていることに気付いた。蝋燭の明かりでは鮮明でないが、木製のかなり古い物だ。
「古文書が欲しければ持っていればいいさ。だが、彼女は返してもらう。」
 ビッテンマイヤーがクーパーを見た。クーパーが言い訳した。
「ソーントン事件に首を突っ込み過ぎた刑事です。その娘にぞっこんの様子で・・・」
「俺は殺人事件の捜査をしているんだ。誘拐も生け贄も許さない。法律の専門家だろう、彼女を解放しろ。罪が少しでも軽くなるぞ。」
「馬鹿な・・・」
 ビッテンマイヤーが笑った。
「儀式が完成すれば、我々は祖先の偉大な力を取り戻す。そうなれば、法律も警察も意のままになる。おまえたちはここから生きて出られない。」
 彼はクーパーに顎で指図した。
「ソーントンの養い娘を呼び出せ。あれは間違いなく処女だ。」
 その時、車椅子の背後の窓ガラスが割れて、人影が現れた。
「その判定は誰がした?」
 オーリーは思わず自分の目を疑った。どんな方法で侵入したのか、レインボウブロウが立っていた。ビッテンマイヤーも振り返った。クーパーはあんぐりと口を開いて彼女を見つめた。
 彼女はいつもの黒いレザーのブルゾンを着ていなかった。鱗状のデザインのTシャツ姿で、背中に赤味がかった銀色の小さなデイパックを背負って、窓から入って来たのだ。この部屋は13階だと言うのに。
 「これはおまえが持つ物ではない、汚れた邪鬼の子孫ども。」
 レインボウブロウはビッテンマイヤーの膝から箱を取り上げた。老人が取り返そうと手を伸ばすと、彼女は車椅子を蹴飛ばした。オーリーが身を動かすと、そ の前を車椅子が走り、危うくクーパーにぶつかりそうになって止まった。ビッテンマイヤーが自力で止めたのだ。オーリーはテーブルに駆け寄った。
「しっかりしろ、イヴ。」
 イヴェインを抱き寄せると、彼女はぐったりとしたまま、かすかに声をたてた。
 レインボウブロウは彼女には興味を示さなかった。無事なのがわかっているみたいだ。
彼女の注意はクーパーとビッテンマイヤーに向けられていた。
「どっちがオルランドの首を刎ねた?」
 沈黙する弁護士たちはそれぞれ拳銃を出した。オーリーが危険を思い出した時は、二挺の銃口が小柄な娘に狙いをつけていた。レインボウブロウはサングラスを取った。黄色い目をジロリとクーパーに向けた。
「ウィリアムは動けない。30年前に、私が脊髄をへし折ったから。オルランドを殺したのは、小僧、おまえだな。」
 ”小僧”と呼ばれたクーパーは真っ青だった。
「まさか、おまえ・・・」
 オーリーは老人の声が、手が激しく震えているのを見た。ビッテンマイヤーが呟いた。
「おまえがあの時の・・・。」
 クーパーが悲鳴に近い声を上げた。
「ソーントンの野郎、”赤竜”の力を解放しやがったんだっ!。」
 彼の心理的恐慌をオーリーは察知した。彼は叫んだ。
「伏せろ、レニー。」
 しかしレインボウブロウは伏せなかった。クーパーの指が引き金に掛かった瞬間、彼女の背中のデイパックが左右に広がった。それはデイパックなどではな かった。半透明の薄い皮膜で、中に骨が通っている翼だった。銃弾は翼を貫通したものの、威力を失ってオーリーの足元に音を立てて転がり落ちた。レインボウ ブロウは翼の傷をちらりと見やった。

2013年10月14日月曜日

赤竜 1 その33

 オフィスの中はお香の様な香りと煙が漂っていた。オーリーは不快な気分になった。この匂いを嗅ぐと何か昔見た怖い夢を思い出しそうな気がしたのだ。
「儀式でもなさっていたのですか。」
 彼の質問にクーパーがドアを閉めながら「そうです」と答えた。彼はオーリーに椅子を勧め、自分の席に向かった。
「良い知らせ、とは何ですか。」
 部屋全体が陽炎に包まれた様に、オーリーには見えた。世界が揺れている。まるで酒に酔った時みたいだ。
「あんた、麻薬でも焚いているのか。」
 背中の拳銃に手が伸びた。クーパーは机の向こうから冷たい目で彼を見ていた。
「少し首を突っ込みすぎた様だな、刑事さん。被害者に親切にする必要なんてなかったのに。女どもが気に入ったのかい。」
 オーリーは彼がニヤニヤと笑うのを見た。その直後、クーパーの背後の窓の向こうを何か大きなモノが横切ったかに見えた。
 幻覚なのか。オーリーは真っ直ぐ立っていられなくなった。床にがくりと膝を衝いた彼は、本能が叫ぶのを心の奥で聞いた。煙を吸ってはいけない。彼は拳銃を抜き、窓に向かって発砲した。高価な二重ガラスはヒビが入っただけだった。クーパーが声をたてて笑った。
「無駄だよ、防弾ガラスだ。銃声すら聞こえないよ。」
 その時、窓が大きな音をたてて崩れた。ガラスの破片が室内に飛び散り、クーパーもオーリーも腕で顔を庇い、身を丸めた。ドッと風が吹き込んできた。入れ 替わりに煙が外に吸い出された。オーリーは深く息を吸った。朦朧としかけた頭がはっきりしてきた。彼は立ち上がり、クーパーに銃を向けた。クーパーは突然 崩壊した窓を呆然と見つめていた。


赤竜 1 その32

オーリーは壁の絵画を眺めた。甲冑に身を固めた中世の騎士が、怪物の首を切っている気持ちの悪い絵だ。人間 の形をした怪物は騎士より少しばかり大きくて、半裸で毛むくじゃらだ。騎士はそいつの髪の毛を掴んで中空に首を持ち上げて自慢している。首からは血が滴っ ていた。首無し胴体からも血が噴き出している。
「嫌な絵でしょ。」
と警備員が話しかけた。
「不気味なだけで、ちっとも綺麗じゃない。」
「誰の絵だい。」
「さあ、あたしがここに入る前からあったんですよ。」
「何かの物語を描いたみたいだな。」
 クーパーの声が背後から聞こえた。
「それは”ベオウルフ”ですよ。人食い鬼のグレンデルを英雄のベオウルフが退治するところです。」
 オーリーは旧世界の伝説には詳しくなかったが、イギリスの叙事詩は知っていた。
「ベオウルフはグレンデルの両腕をもぎ取ったんでしょう。首を切ったんじゃありませんよ。」
「絵の中のベオウルフが鬼の首を切っているのは、鬼の復活を阻止する為です。多少の作為はありますよ、芸術にはね。」
 クーパー弁護士の体からかすかにお香の様な匂いが漂ってきた。
「ところで、良い知らせとは何です。」
「それはね・・・」
 オーリーはどうすればイヴェインの無事を確認出来るだろうか、と考えた。
「ちょっと込み入っているので、事務所の方でお話したいのですが。」
 クーパーは彼を見つめた。
「ここでは出来ない話ですか。」
「そうです。」
 オーリーは捜査の時に使うはったりを使った。弁護士は無碍に拒否するのも賢明でないと判断したのか、頷いた。
「わかりました、散らかっていますが、私のオフィスにどうぞ。」
 二人はエレベーターに乗り込んだ。ケイジが動き始めると、オーリーは一番知りたいことを尋ねた。
「ところで、今日はミズ・カッスラーがこちらへ来られたと聞いていますが、どんな用件だったんですか。」
「依頼人の許可なしに仕事の内容は口外出来ません。」
 クーパーが素早く予防線を張った。オーリーは突っ込んでみた。
「彼女に仕事を紹介すると仰ったんじゃありませんか。」
 クーパーが微笑した。
「レインボウブロウからお聞きになったんですか。それなら、質問なさる必要はないはずだ。」
「それがあるんですよ。ミズ・カッスラーはまだ帰宅していない。」
「寄り道しているのでしょう。若い娘さんは遊びたいだろうからね。特に一夜で富豪になったことだし。」
「彼女はそんな傲慢な人じゃない。彼女はまだここにいるんじゃないんですか。」
 エレベーターが止まり、扉が開いた。
「何故そんなことを仰るのかな。」
 オーリーはクーパーより先に下りた。幸い待ち伏せはなかった。今のところは。
 弁護士が彼に続いた。
「彼女は私が紹介した仕事を自信がないと言って断った。ご存じでしょうが、彼女は貧困家庭の子供で、教育を満足に受けていない。まだ読み書きを習っているところです。私が紹介した仕事は秘書の様な内容だったので、彼女は尻込みしたのです。」
「では、彼女はここを出たと?」
「そう、5時にね。何故私が彼女をここに引き留めていると思われたのですか。」
 クーパーはオフィスのドアを開いた。

2013年10月13日日曜日

赤竜 1 その31

 ビッテンマイヤー法律相談所は就業時間をとっくに過ぎていたが、照明が灯った部屋がいくつかあった。クーパー弁護士の部屋もその一つだった。抑えた明かりを見て、レインボウブロウが「嘘つき」と呟いた。
「留守電にして、帰ったと思わせたんだ。」
とオーリー。イヴェインはまだ無事だろうか。クーパーが何故イヴェイン・カッスラーを誘い出したのか、彼は道中の車でレインボウブロウから理由を聞いた。
「どの霊を呼び出すかに拠るが・・・」
と彼女は説明した。
「儀式は処女の生き血が用いられることがある。イヴェインは酷い環境で育ったし、娼婦の真似事もやったが、若いから処女の代用にされる可能性はある。彼女がいなくなっても訴える親族はいない。弁護士なら、彼女の財産を自由にする法律の抜け道を考えられるだろう。」
 クーパー弁護士が呪い好きとは到底思えなかったが、財産の横領は十分考えられた。
オーリーはバッジを持っていた。非番でも持ち歩く習慣だった。兎に角、それで弁護士に面会を求めてみよう。
 オーリーはレインボウブロウに外で待つように、と言った。
「私が一緒の方が中に入れてもらえる確率が大きい。」
と彼女が待つことに異論を唱えた。
「向こうは処女の生き血が欲しい。イヴェインが不合格の場合、私が行けば彼らは喜ぶ。」
「なおさら、ここで待っていて欲しいね。」
 オーリーはダッシュボードから拳銃を出して、ベルトの背中に挿した。
「俺はイヴェインを助けるので精一杯になるだろう。君の護衛まで手が回らない。」
 すると、彼女はそれ以上我が儘を通そうとはしなかった。彼に「気を付けて」と言っただけだった。
 オーリーは建物に入った。昼間来た時と違って閑散として、暗かった。受付カウンターの向こうにいるのは、事務員ではなく、屈強な警備員だ。オーリーは微笑みを浮かべながら近づいた。
「やあ、今晩は。僕は市警のワールウィンドだ。」
 バッジを見せると警備員は警戒を解いた。
「今晩は、刑事さん、何か用ですか。」
「この前を通りかかったら、クーパー弁護士の部屋に明かりが見えたんで、今日ソーントン事件で少し良い知らせがある、と伝えに来たんだ。呼び出してもらえるかな。」
「じゃ、ちょっと待って下さい。」
 警備員が内線をかけた。確実にクーパー弁護士は部屋にいるのだ。二三の言葉のやりとりの後で、警備員がオーリーを振り返った。
「すぐ来られるそうです。」
「有り難う。」

赤竜 1 その30

「成る程、そこに何か宝物でも入っていたのか。」
「宝物・・・」
 彼女がフッと自嘲するみたいな笑い方をした。
「人に拠っては、そう考える者もいるだろう。」
「君はそうは思わなかったんだな。ソーントンも同じ考えだったのか。」
 彼女が窓からオーリーに視線を移した。
「彼は、何だろう、と思っただけだ。」
 相変わらず要点を絞りきれない説明だ。オーリーは慣れてきてはいたが、好きにはなれなかった。少し苛々して尋ねた。
「何だったんだ。」
 レインボウブロウは時計を見た。
「そろそろイヴェインが家に着いた頃だ。寄り道するなら、状況は違うけれど。」
 仕方なく、オーリーは再び電話をかけてみた。呼び出し音だけが空しく聞こえてきた。
彼がレインボウブロウを見て首を振って見せると、彼女は立ち上がった。
「何処に行った。」
 苛立っていた。オーリーが
「明日じゃ駄目か。」
と聞いても、「駄目」と言うだけだ。
「オルランドの頭は侮辱を受けている。魂を浄化してあげなければ、彼は安らかに眠れない。」
 そして、突然誰もいない廊下の一隅に向かって怒鳴った。
「来るな、それ以上近づくと焼き払う。」
 オーリーは彼女がどうかしてしまったのでは、と心配になってきた。ソーントンの頭蓋骨を見て、彼女の精神が緩んでしまったのでは。
「クーパーの携帯電話の番号はわからないのか。」
 オーリーの提案に、彼女が足を止めた。
「ワールウィンド刑事、さっきのリストの品を買った人間の特徴を聞かなかったのか。」
「少しだけ。」
 オーリーは手帳を出した。
「大柄で濃い口ひげの、スーツをきちんと着こんだ男、硬い職業に就いている雰囲気。
魔法で遊ぶ様なタイプに見えない・・・」
 彼はレインボウブロウを見た。
「クーパーか?」
 彼女が窓を見上げ、やがて出口に向かって歩き始めた。オーリーは追いかけた。
「弁護士の事務所に行くのか。」
「イヴェインが心配だ。」
「君一人では危険だ。つまり、もしクーパーが犯人だったら・・・」
 レインボウブロウは聞く耳を持たぬと言った様子で、検死局から出た。オーリーは検死官に叱られることを覚悟で、彼女に付いて行くことにした。

2013年10月12日土曜日

赤竜 1 その29

 モルグにあったのは、本当に綺麗な頭蓋骨だった。まるで何処かの教室から持ち出した標本みたいだ。しかし検死官は本物の人骨だと断定していた。そしてレインボウブロウはそれを抱き上げて頬ずりした。
「御免ね、オルランド。」
と彼女は囁いた。
「留守にすべきではなかった。わかっていたのに・・・。」
 検死官がオーリーに小声で尋ねた。
「何故彼女はあれがオーランド・ソーントンだとわかるのかな。」
 答えられなかったので、オーリーはレインボウブロウに見習って質問で返した。
「先生は何故頭部と胴体が同一人物だと判定なさったんです。」
「首の骨の断面がぴったり一致するから。」
「ああ、そう・・・」
「彼女は頭蓋骨とダンスをしているのか?」
 レインボウブロウが骨を抱いたまま室内を歩いていた。リズミカルな歩調で宙を眺めながら、彼女は意味不明の歌を口ずさんでいた。
「首を切断した凶器が出たら、先生にはわかりますか。」
「骨の断面と刃物の傷が一致すれば、決定的だ。犯人の目星はついているのか。」
 残念ながら。オーリーは首を振った。彼女が近づいて来た。
「オルランドを連れて帰りたい。」
「ミズ・カッスラーの署名が必要です。」
 オーリーは彼女の視線を捉えた。サングラス越しでも、はっきり感じた。イヴェインが来るのを待てない、と彼女の目は訴えた。オーリーは規則を曲げられる程高い地位にいなかった。
「彼女に連絡する。ここで待っていよう。」
 イヴェインは携帯電話を持っていなかったので、クーパー弁護士の事務所にかけた。時刻が遅かったので、事務所は既に終了しており、留守電になっていた。オーリーは女性たちの家にかけてみた。まだ彼女は帰宅しておらず、誰も出なかった。
「きっとタクシーの中だ。もう暫く待っていよう。」
 早く次の仕事に取りかかりたい検死官を残し、二人は待合室に入った。レインボウブロウが珍しく落ち着かなかった。
鼻をひくひくさせて、
「死の匂いがいっぱい。」
と呟いた。
「モルグだからね。」
「血の匂いと、腐臭。」
「ここに運ばれる死体は全て綺麗なものとは限らない。」
 オーリーは滅入りそうな気分を入れ替えようと、頭を回転させた。
「以前、俺が君とソーントンが知り合ったきっかけを尋ねただろう。君はソーントンがタンスを買った話をした。それから、どう言う展開になるんだい。」
 レインボウブロウは廊下の壁の上にある窓を見上げた。
「タンスの抽斗をオルランドが開けた。」

赤竜 1 その28

「あ・・・」
 泥だらけの手を用心深く額に擦りつけて、彼女は汗を拭くふりをした。
「ベルが故障していたことを、忘れていた。直ぐ直さなければ。」
 彼女は穴をそのままにしてそばの流しで手を洗った。オーリーは先に上に上がった。彼女が追いついた時に警察から電話が掛かってきたのだ。レインボウブロウが電話に出るのを、オーリーは初めて見た。彼女は「カッスラー」と名乗り、相手の話に耳を傾け、何時そこへ行けば良いのか、と尋ねた。そして「有り難う」と言って電話を置いた。オーリーを振り返って、事務的に言った。
「墓地で頭蓋骨が見つかった。オルランドの墓石の上に置かれていたそうだ。身元確認の為にモルグへ行かねばならない。」
 素人が骨を見て親しい人間の物だと判別出来るはずがないのに、とオーリーは上司の判断を腹立たしく思った。電話に出たのがレインボウブロウだから、冷静なのだ。イヴェインなら、取り乱したかも知れない。
 結局、質問は後回しにされて、彼は自分の車にレインボウブロウを乗せた。かなり暖かい日だったのに、彼女はブルゾンを着ていた。
「モルグに着く前に教えて欲しい物があるんだ。」
 彼は魔法店でメモした物品リストをポケットから出して彼女に手渡した。
「これは何に使うものだろう。」
 レインボウブロウはサングラスをやや持ち上げてリストにさっと目を通した。
「これは?」
「コールマンと言う魔法道具を扱う店で2,3週間前に来た客が購入した品物だ。店の者が言うには、珍しく真面目な客だ。ひやかしじゃなくてね。何に使うのだろう。」
「魔術。」
「それはわかる。どんな内容の魔術だ。」
「これだけでは、何とも・・・」
 はぐらかされたくないオーリーは素早く言った。
「特定出来ないなら、考え得る限りのことを教えてくれないか。」
 彼女はサングラスを掛け直した。
「考え得るのは、唯一つ。材料が足りないだけで、他の術は考えられない。足りない物は既に持っているのかも知れない。」
「だから、何だ。」
 横目で睨むと、彼女は初めてオーリーに降参した。
「召還術。」
「何を呼ぶんだ。」
 少し間をおいて彼女は答えた。
「先祖の霊。」

2013年10月11日金曜日

赤竜 1 その27

 レインボウブロウにもらった「赤竜」には魔術に用いる品物や手順が書かれていた。ラテン語なので、死者の 復活の項目を探すのに骨を折ったが、どうにか見つけだした。材料らしき物を書き留め、それを持って紹介されたコールドマン魔法店に行くと、冴えない顔の中 年の男がレジの向こうで新聞を読んでいた。新聞は近所のスタンドで買ったもので、魔法通信とかの類ではなかった。ドアベルの音で、彼は振り返った。オー リーは「今日は」と言い、メモを取りだした。
「最近、こんな物を買いに来た客はいませんでしたか。」
 店番はメモを眺めた。
「ああ、死者復活の儀式ね。よくあるよ。」
「よくある?」
「うん、愛する人間を亡くすと、なんとしてでも生き返らせたいと願う人さ。時々本を読んだり、インチキ呪い師にそそのかされて儀式をやるんだ。」
「その儀式は、効き目はない?」
「ある訳ないよ。本当の魔法使いじゃないのに。」
「本物がやれば、生き返る?」
「さあね、聞いたことないね。」
 男はオーリーをジロリと見た。
「あんた、客じゃないね。」
 仕方なくオーリーはバッジを出した。店番は溜息をついた。
「最近ここに来るって言えば、頭がおかしな奴か、警察くらいだね。」
「最後に本物の客が来たのは何時。」
「いつかな・・・」
 店番は考え込んだ。
「本物です、て名乗る訳じゃないから。でも、品選びが上手い客はいる。勉強しているんだね、きっと。」
「それは女性かな。」
「いいや、男。体のでかい濃い口ひげのおっさんで、何か硬い職業に就いている雰囲気だった。だから印象に残った。魔法に興味持つように見えなかったから。」
「それは何時頃の話かな。」
「二週間前、否、三週間前かな。」
「何を買ったか覚えているかな。」
 店番はオーリーが初めて耳にする様な薬草や器具の名前を挙げた。
「何に使うか、わかりますか。」
「さてね、いろいろ応用が利く品だからね、特定したければ、”赤竜”を読めばいい。書いてあるよ。」
「ラテン語は苦手で・・・」
とオーリーが白状すると、店番が笑った。
「英語訳があるさ。買うかね。」

 人間の頭部の骨が見つかった。町外れの墓地で墓参の家族連れが見つけたのだ。オーランド・ソーントンの墓石の上にこれみよがしに置かれていた骨には薄い白髪が微かに残っていた。短期間で白骨化するはずがない。故意に虫や何かに肉を食らわせて骨だけにしたのだ。
 警察はカッスラーに連絡を取って身元確認を依頼した。オーリーが非番の日で、たまたま彼はカッスラー家でレインボウブロウにコールマン魔法店で聞き込ん だ品物が何に使われるのか尋ねているところだった。イヴェインはまた留守だった。クーパー弁護士に仕事を紹介してもらうのだと言って出かけていた。昼間は 滅多に外出しないレインボウブロウが一人で地下室の洗濯場で壁を掘っていた。また秘密のプールを造っているのだ。オーリーは彼女がシャベルも何も使わない で手掘りしていることに驚いた。バケツに土を入れていたところを邪魔されて彼女は不機嫌だった。
「家に入る許可を出した覚えはない。」
「ベルを何度も鳴らした。ドアが開いていたのに返事がないから、何かあったかと心配に
なって入ったんだ。そしたら地下室で物音がするじゃないか。」

赤竜 1 その26

「これには、悪魔たちの図鑑や邪道を書いた書物の紹介も載っている。」
 彼はオーリーにも見えるように、本を傍らの書き物机の上に広げた。
「死者を蘇らせるのは、最も忌むべき邪道だ。それを行えば、復活した死者は魂を失っていて生きていた時とは性格が異なり、邪悪な存在となる。」
「死んだ直後なら、救えますか。」
「そんなことは聞いたことがない。」
 フライシュマンはオーリーを睨んだ。
「私は本屋で、魔法の研究家じゃない。詳しく知りたければ、専門家を訪ねることだ。」
 魔法の研究家と名乗る人間は結構いた。しかしオーリーが「死者の復活」や「警察」と言う単語を出すと、話を断るか、切ってしまうのだ。まともな商売を やっている訳ではなさそうだ。本物の研究家ではないのだろう。最後に、ソーントンの骨董品屋仲間が魔法グッズを扱う店を紹介してくれた。彼がそこを訪ねる と言うと、ライリーが「好きにしなよ」と笑った。
「俺はカッスラーにソーントンの屋敷の解体許可が下りたと通告しに行ってくるよ。」
 えっとオーリーは驚いた。
「あの屋敷を解体するのか。」
「カッスラーが許可申請を出していた。殺人があった屋敷では売れないからな、更地にしてしまうんだそうだ。跡地を公園として街に寄付するって言うから、早い時期に許可が下りたんだ。」
 オーリーはクロゼットの奥の秘密の階段と秘密のプールを思い出した。工事中にあれが明らかになれば、みんな驚くだろう。イヴェインはあれの存在を知らな いのだ。あの場所はソーントンとレインボウブロウだけの秘密の場所だった。何の為にあんな場所にあんなものを造ったのだろう。それに、あの氷の様な冷たい 水。彼女はあそこに潜っていた。
あの女は魔女なのか。

2013年10月9日水曜日

赤竜 1 その25

一番の謎はレインボウブロウだ。彼女が全ての鍵を握っている。ソーントンが殺された理由も、イヴェインが生きていることも。レインボウブロウはイヴェインが”殺された”時、「頭が無事だった」、と言った。ソーントンの頭部が見つからないことと関係あるのだろうか。
 オーリーは再びエイブラハム・フライシュマンを訪ねた。
「死んだ人間を生き返らせる方法を書いた本はありますか。」
 フライシュマンはこの質問を喜ばなかった。
「禁断の魔術だね。」
「全ての魔法はキリスト教では禁断のものでしょう。ユダヤ教でも同じだと思いますけど。興味本位で探しているんじゃありません。捜査に必要なんです。」
「捜査に魔法を使うのかね。」
「いいえ、犯人が魔法を使った・・・もとい、魔法を使おうとしていたんじゃないか、と思うんです。」
 フライシュマンはオーリーに椅子を勧めた。脚のバランスが悪くて少しがたついた椅子だった。
「オーランド・ソーントンはどんな殺され方をしたのか、聞いてもいいかな、刑事さん。」
 もう事件発生から二週間以上たっている。隠すこともなくなった。ただ、公表していないだけだ。署長はソーントン事件を忘れていた。他にも事件がいっぱい あったし、出世に関係ないものは直ぐ忘れる人だった。オーリーは「公表されていないので、口外しないで下さい。」と念を押してから、死体発見当時の説明を した。フライシュマンは白い眉を寄せて不快を表した。
「それは、魔法を信じる者の仕業だと、君は考えるのだな。」
 老人は腰を上げて書庫に入って行った。数分後に戻って来た時、彼の手にあったのは、「赤竜」だった。

2013年10月6日日曜日

赤竜 1 その24

アンティークな家で暮らしていたレインボウブロウは、全く趣味の異なる家を面白がっていた。オーリーにコーヒーを入れて出したカップも古い絵付けカップでなく、無骨なしっかりしたものだった。
「ソーントンの物は何も持って来なかったのかい。」
「イヴェインが気に入っていた食器や小物を持ち込んだ。後は処分した。売ったり、捨てたり、焼いたり。」
 レインボウブロウは骨董品の価値を理解しても、所有欲がないのだ。彼の正面に座って「それで?」と催促した。オーリーは単刀直入に質問した。婉曲に言えば、またはぐらかされる。
「仕事絡みで知り合いの娼婦から聞いた話なんだが、イヴェイン・カッスラーは半年前に死んでいる。娼婦の縄張り争いで、見せしめに殴り殺されたそうだ。彼女が息を引き取るのを看取った女がいる。君が一緒に暮らしているイヴェイン・カッスラーは何者だ。」
 レインボウブロウは驚いたり、腹を立てたりしなかった。彼の目を真っ直ぐ見て言った。
「彼女はイヴェイン・カッスラーだ。」
「殺された少女と同じ人物だと言うのか。」
「そう。」
 彼女があっさり認めたので、オーリーは何と言えば良いのか困った。
「殺された女が、何故ソーントンの屋敷で女中をして、今彼の相続人になっているんだ。」
 レインボウブロウは自分のカップにお湯だけを注ぎ込んだ。
「私が見つけた時、彼女の頭は無事だった。手足も、ちぎれたりしていなかった。まだ魂も綺麗だったし、体も温かだった。だから、私は彼女を屋敷に持ち帰り、修理した。」
「修理って・・・」
 オーリーは頭が混乱しかけた。彼女は何の話をしているのだ。アンティークの家具や古書を語るみたいな話し方だ。
「治療したって意味か。」
「そう解釈したければ、その通り。」
「君一人で治療したのか、病院に入れずに。」
「そんなことをすれば、彼女は死んでいた。」
「君は医学知識があるのか。」
「コーヒーのお代わりは?」
 家の前にタクシーが止まり、イヴェインが降り立つのが見えた。この不可解な話はここまでだ。レインボウブロウがオーリーに釘を刺した。
「イヴェインはここで人間らしい生活を始めた。人並みの人生を送るのだ。だから、彼女の過去をほじくるのは止めて欲しい。」
 イヴェインが買い物を詰め込んだ紙袋を抱えて玄関に来たので、オーリーは席を立ってドアを開けてやった。彼を見たイヴェインは驚いたと同時に喜んだ。
「あら、来て下さったの。」
 オーリーは手土産を用意しなかったことを思い出して、後悔した。
「新しい家を見せてもらっていた。こんなデザインの家なら、プレゼントもモダンな物にしよう。」
 イヴェインはニコニコしてレインボウブロウに近づき、身を屈めて彼女の頬にキスをした。
「全部終わったわ。クーパーさんは私の顧問弁護士を引き受けて下さった。もっとも、彼の出番は余りないと思うわ。私は商売の才覚がなさそうだし、もう少し読み書きを勉強したら、何処かでお勤めするつもり。」
「お金持ちなのに?」
 オーリーの言葉に、彼女は振り返った。
「私がこしらえたお金じゃないわ。もっと勉強して、500万ドルが何に役立つのか、考える。」
 オーリーはレインボウブロウが彼女の陰で声を出さずに呟くのを目撃した。綺麗な魂、と。

赤竜 1 その23

 ソーントンの事件はお蔵入りしそうだったが、オーリーはまた二人の女性の許に出かけた。今度は新しい家 だ。事件現場となった屋敷に比べると小さかった。芝生の前庭とガレージと二階に部屋が一つだけの白い壁の家。彼が訪ねた時は夕刻だった。イヴェインは出か けて留守だったが、レインボウブロウが珍しく応対に出た。
「近所には私をイヴェインのボーイフレンドだと思わせておく。」
と彼女は彼を迎え入れながら言った。
「女性だけだと知られるより安全だろう。」
「彼女は何処へ行ったんだい。」
「クーパー弁護士と最後の打ち合わせ。今後の彼との契約更新も決まる。」
 イヴェインがいない方が話がし易い。レインボウブロウにはぐらかされないように、用心は必要だったが。
「どうしても、君の口から本当のことを教えてもらいたい。時間をもらえないか。」
 オーリーの言葉に、彼女は彼にソファを勧めた。前の屋敷にあったものよりモダンで近代アート的デザインで、しかも色は原色だった。座り心地は想像より良かった。
「家具付きだって。」
「そう、以前の住人の趣味。そっくり残しているところを見ると、飽きたらしい。」

2013年10月5日土曜日

赤竜 1 その22

二人が食堂に戻って来たのは10分後だった。席に着くと、レインボウブロウが手帳に何やら書き込んでそのページを破り取った。イヴェインに渡して、
「明日これを買ってきなさい、私は納屋を探して道具を出しておくから。」
と言った。どうやら骨董品の修理の話らしい。オーリーは仲間に入りたかったので、
「直ぐ直りそうだね。」
と言ってみた。レインボウブロウが頷いた。
「タンスは少し凹んだだけ。他の家具も今のついでに直してしまう。新しい家は家具付きだから、ここの物は売る。」
 イヴェインがオーリーにお愛想した。
「宜しければ、あなたのお好きな家具を一つ差し上げてもいいわ。」
「ええっと・・・」
 オーリーは室内を見回した。アンティークなカップボードや電話台や、椅子。どれも彼の侘びしいアパートにはそぐわなかった。
「俺には骨董品はわからないよ。部屋に合うとも思えないし。」
「さっきの本でも売れば結構な値段になる。」
「俺の本じゃない。それに、俺はここに掘り出し物を探しに来た訳でもない。」
「犯人の手がかりを探しているのね。」
 イヴェインは警察に期待していた。否、オーリーに期待していた。

 署でリーリー・コドロフに出会った。いつも客と喧嘩しては引っ張られる娼婦だ。オーリーは彼女の歯に衣を着せぬ物言いが気に入っていたので、リーリーの ことは嫌いではなかった。世間話をさせると、彼女はとても話し上手なのだ。オーリーが出先から帰った時も彼女は取り調べが終わって刑事たちを笑わせる客の 話をしていた。オーリーが目が合ったので「やあ」と挨拶すると、彼女は自分の話を素早く切り上げて、彼の机に近づいた。
「ちょっといい、オーリー?」
 オーリーは顎で隣の空いた椅子を示した。娼婦が声を落として話しかけてくる時は、何か情報を持っているのだ。リーリーが椅子に座った。金髪に染めたブルネットの根本が黒ずんで見えた。美人だが、近くで見ると歳を取っていることがわかる。
「先週、女を連れて食事に行ったわね。」
と彼女が切り出した。
「3丁目のイタリアレストランよ。あなた、アフリカンの娘ッコと男の子みたいなチビ女を連れていたでしょ。」
「捜査の一環だよ。家庭の事情を探る目的だった。」
 言い訳するオーリーを、リーリーがじっと見つめた。
「どっちの女の事情よ。私は黒い方を知ってる。」
「イヴェイン・カッスラーを?」
 不思議ではない。イヴェインはスラムの出身だ。
「彼女の素性は調査済みだよ。」
 彼女が富豪になったと聞いたら、娼婦はどんな反応を示すだろう。
 リーリーがタバコを出したが、禁煙の表示に気付いてまたバッグに仕舞い込んだ。
「でも、あの小娘が死んだってことは知ってるのかい。」
「死んだって・・・」
「他人の縄張りで商売を始めようとして、そこの用心棒たちに殴られたんだよ。私はボロボロになったあの子が冷たくなっていくのを見守るしかなかった。仲間 が救急車を呼んだけど、間に合わなかった。あの子の心臓が止まったので、私らは退散したんだ。関わり合いになりたくなかったからね。証人にはなりたくな かった。だけど、やっぱり、私は気になって・・・救急車が来た時、あの子が倒れている路地に案内したんだ。でも、あの子の姿は消えていた。死体はなかった んだ。」
「本当に死んでいたのか。」
「本当さ。口から血を出して目を剥いて、腕は折れていたし、多分肋も折れたはずだ。あの界隈の乱暴者はあの世間知らずの小娘をサンドバッグみたいに叩きや がったんだよ。スカートも濡れていたから、下からも出血してかもね。お腹を散々殴られていたから。黒い子が嫌いな連中だったんだ。白人でない奴は犬以下 だって考える連中さ。
「だから、あの子が立ち上がって自分で歩いて行ったはずがない。誰かが拾ったとも思えない。動かせば確実に死んでたもの。」
「その娘が俺と飯食ってたって言うのか。」
「双子のはずないわ。あの子は小さい時から見かけていたもの。」
「でも彼女はゾンビじゃない。」
「わかってる。だから、私が言いたいのは、あの夜の女がイヴェインだって名乗ったのなら、偽物だってこと。私らの街で生まれ育ったイヴェインは私の目の前で息を引き取ったんだからね。」

2013年10月4日金曜日

赤竜 1 その21

 イヴェインは自分より小柄なレインボウブロウに精神的に寄りかかっていた。年齢はレインボウブロウの方が上だが、とても40歳には見えない。故買屋が30年前に出会った10歳程度の子供は、別人に違いない、とオーリーは思った。
「レニーはソーントン氏の友人だと言うが、何処で知り合ったんだい。」
 オーリーはわざと意地悪な質問をしてみた。レインボウブロウはいつもの如く曖昧な返事をした。
「オルランドがタンスを買った。彼の寝室に現在も置いているビクトリア様式の小さな物で、当時のお金を今のレートに換算すると5万ドルになる。」
 それがどうして出会いのきっかけになりうるのか、オーリーが尋ねる前に、イヴェインが割り込んだ。
「まあ、あのタンス、そんな値打ち物だったの、どうしよう・・・」
「どうした。」
「先々週、お掃除している時に掃除機をぶつけて、角に傷を入れてしまったわ。」
 レインボウブロウが髪の毛に指を突っ込んだ。
「私の修復で誤魔化せるかな。あれをオークションに出して売れたら、あなたに車を買ってあげられるのに。」
 二人の女性が互いに見つめ合った。オーリーが入り込む隙もなく、彼女たちは同時に立ち上がった。
「御免なさい、兎に角、傷を見て頂戴。旦那様がお気づきでなかったから、目立たないと思うけど。」
 オーリーは食堂に取り残された。またもや、レインボウブロウにはぐらかされてしまったことは確実だった。

2013年9月28日土曜日

赤竜 1 その20

「彼は古書に詳しかったが、コレクターじゃなかった。売れる物なら、隠したりしないで市場に出したはずだ。」
「でも、家宝なら・・・」
 あり得る、とオーリーは感じた。代々継承されてきた古書。その値打ちがわかるのは、遺産相続人ではなく、家に置いている鑑定士顔負けの鑑定眼を持つ娘唯一人。
 そう言えば、レインボウブロウはソーントンの葬儀には来ていなかった。

 事件関係者と警官が個人的な関わりを持つことは禁じられていた訳ではないが、余り誉められたものでもなかった。しかしオーリーはソーントン家の二人の娘 が気になった。イヴェイン・カッスラーはモーテルを引き払って屋敷に戻っていた。警察だけでなく、近所の住人もこれには驚いたようだ。惨劇があった家に若 い娘が一人で戻って来たのだ。オーリーが様子を伺いに立ち寄ると、彼女は引っ越しの準備をしていた。
「やはり移るんだね。」
 声をかけると、彼女は弱々しく微笑んだ。
「ここから出たくはないけれど、レニーが転居した方がいいって言うの。私一人で住むには広すぎて維持が大変だし、周辺は人通りが少ないから、もっと賑やか で明るい場所がいいって。それに、近所の人もアフリカ系の女中が主人面して住み着くのを歓迎していないみたいなの。」
「レニーも一緒に行くのかい。」
「ええ、私が頼んだの。彼女は行きたい場所があるみたいだけど、私が落ち着く迄そばにいてって頼んだら承知してくれたわ。」
 そして彼女は付け加えた。
「遠くへ行く訳じゃないのよ。クーパー弁護士に頼んで、小さい一戸建てを見つけてもらったの。ここからバスで10分程の所。だから、ここにも、お掃除や庭の手入れに通えるわ。」
 相続手続きが終わればそんな仕事は人を雇ってしまえることに、彼女は思い当たらない口調だった。
「そこはうちの所轄管内だね。」
とオーリーは確認してみた。そのはずよ、とイヴェインは頷いた。
「今日はお仕事中なの、ワールウィンドさん。」
「勤務明けだよ、それから、俺のことはオーリーって呼んで。」
「じゃあ、私はイヴ。勤務明けなら、コーヒーを入れてもいいわね。書斎からレニーを連れて来て下さらないかしら。彼女は本の整理をしているの。私にはわか らない物だし、管理も出来ないから、彼女が売ってしまえばいいって。そうすれば、当分生活費の足しになるから、銀行の口座を切り崩さなくてもいいでしょ う、と言うの。本って、そんなに高価な物なのかしら。」
 イヴェインは一気に喋ってしまってから、台所に入って行った。オーリーは素直に書斎に足を運んだ。事件当夜イヴェインが体当たりして開けたドアは、壊れ たままだ。散乱していた古書は部屋の一角に積み上げられて、レインボウブロウが仕分けて箱に詰め込む作業に没頭していた。室内でも彼女はブルゾンを着たま まだった。
 オーリーは開いているドアをノックして、彼女の注意を引いた。振り返った彼女の目は黄色い眼球に瞳孔がやや開いて小さな虹彩の様に見えた。やあ、と声をかけて、オーリーは肩越しに台所方向を指さした。
「イヴがコーヒーを入れてくれる。休憩しないか。」
 レインボウブロウは立ち上がった。手に付いた埃を払い、彼をジロリと見た。
「何故私たちに関わりたがる、ワールウィンドさん。」
「担当だからさ。」
 オーリーは少しムッとした。彼女は「関わるな」と仄めかしたのだ。
「まだソーントン氏の頭部が見つかっていない。犯人の見当もつかない。」
 彼女が小さく溜息をつき、本を一冊手に取った。オーリーが先日古書店で見せてもらった「赤竜」と同じ本だった。彼女は用心深く古い書物のページを開いた。
「犯人の見当は付いている。ソーントン一族を祖先の仇敵と狙う鬼の子孫どもだ。」
「はあ?」
 パタンっと本を閉じて、彼女はオーリーにそれを差し出した。彼が意味を解さぬまま受け取ると、彼女は彼の横をすり抜けて先に台所へ歩き去った。

2013年9月23日月曜日

赤竜 1 その19

 オーリーは古書専門店を経営するエイブラハム・フライシュマンを訪ねた。彼もソーントンに何度か古書の鑑定を依頼したことがあったと言う。エイブラハムは60を少し過ぎた痩せぎすの金髪の男だった。
「オーランドは売買される本より、博物館行きになりそうな古文書の類を得意としていたね。」
と彼はオーリーにお茶を出して言った。
「それは、死海文書みたいな物ですか。」
 オーリーは考古学には疎い。頭にある乏しい知識を総動員して、一番古そうな本らしきものの名前を出してみた。ユダヤ人の本屋が笑わずに頷いた。
「そう、羊皮紙の類だね、相当珍しい貴重な物を持っていたはずだよ。値打ちがわかる人間なら、殺してでも手に入れたい物もあったんじゃないかな。」
「”赤竜”って、ご存じですか。」
「うん、知ってるよ。この店にもある。見るかい。」
 エイブラハムはオーリーを古書の倉庫に案内した。
「古い本は温度と湿度を一定に保ってやらなきゃならん。ワインみたいに手間が掛かる代物でね。」
 ソーントンの書斎は普通の部屋だったな、と思いつつ、オーリーは倉庫に入った。古い紙の匂いが詰まった空間だった。ずらりと並んだ本は羊皮紙なのか紙な のか、彼にはわからなかった。この倉庫には「赤竜」が二冊あった。一冊はラテン語で、一冊はドイツ語だった。どっちもオーリーには読めない。それでもエイ ブラハムが手に取った本を用心深く開いて見せてくれると、そこには大鍋を煮込む魔女の絵が描かれていた。
「この本はいつ頃書かれた物なんですか。」
「さてね、グーテンブルグの活版印刷より前だったことは確かだね。これは活字だけどね。」
「もし、これの初版本が出てきたら、大騒ぎでしょうね。」
「魔法マニアや珍品マニアは興奮するだろうな。」
「ソーントン氏がそれを持っていたなんてことはありませんか。」

赤竜 1 その17

「その、レインボウブロウって娘なんだが・・・」
 交代で事件を扱った刑事がオーリーに言った。
「何処で生まれて、親は誰なんだ。彼女に関する記録が何処にもない。ソーントンの社会保障番号やら免許に関する記録は見つかったのに、娘のものは全くないんだ。それに、近所の住人も出入りの食料品店の店員も、イヴェイン以外の女をあの屋敷で見たことがない。」
「でも、弁護士は知っていたし、レストランの常連みたいだった。多分、隠れて暮らしていたんだ。」
「何故だい。」
「彼女の目を見たかい。」
「目がどうした。」
 オーリーは手を振った。
「いや、忘れてくれ。」
 事件は他にも複数抱えていた。本署の殺人課と違って、一つに的を絞って捜査出来ないのが悔しい。一応担当なので、他の事件よりは時間を割けても、それだけに係りっきりにはなれなかった。
 ソーントンの葬儀には顔を出した。首無し死体なので棺を開いて別れを告げることは出来なかったが、親族が一人もいなかったので、それは無事に済んだ。骨 董品の取引業者や古書のコレクターなど、そこそこ友人と名乗れる人々が来て、喪主のイヴェイン・カッスラーを哀しませずに済んだ。オーリーとライリーは出 来るだけ多くの人間を呼び止めて故人の人間関係について話を聞いた。どの人もソーントンを悪く言う者はいなかった。商売に関しては誠実で、妥当な値段で取 引をした、目利きで真贋の見分け方が上手かった。まがいものを扱ったことはないし、同業者とトラブルを起こしたこともなかった。オーリーは一人の故買屋か ら面白い情報を得た。
「偽物臭い18世紀の家具があってね、彼に鑑定を依頼したんだ。ああ、オーランドは家具と古書専門の骨董品屋だったんだ、知ってる?それでさ、彼は最初そ れを見た時、自分は自信がない、て言ったんだ。専門家を連れて来るから、売るのはもう少し待てって。それで、次の日に彼が連れて来たのが、10歳くらいの 小さなガキで、俺は冗談かと思った。ところが、そのチビさんが、テーブルの脚の部分の塗料をちょいと削って、口に入れた。」
 故買屋はオーリーを見てニヤリとした。
「嘗めて塗料の成分を言い当てられる骨董品屋が此の世に何人いると思う?それに体には良くない行為だ。俺は”そんなことをしちゃ、駄目だよ”とその子に注 意してやった。ところが、オーランドの奴は俺に言ったんだ、”この子のやりたい様にやらせてやってくれ”ってね。」
「その子は塗料の分析に成功して、真贋を言い当てた?」
「そう、その通り。」
「その子、どんな色の目をしていました?」
「さてね、覚えてないな。薄暗い場所でね、オーランドが指定したんだが、明かりを灯すことを彼は拒否した。」
「子供の名前も覚えてないですか。」
「ああ、ビリーだったかな、デニーだったかな・・・」
「レニーでは。」
「そうだったかな。昔のことなんで、忘れちまったよ。」
 有り難う、とオーリーが彼から離れかけると、その故買屋が付け足した。
「なにしろ、30年前の話だからな。」
 えっとオーリーは振り返ったが、もうその故買屋は待たせていた自分の店の車に乗り込んで走り去ろうとしていた。
 ライリーは何人かの古書のコレクターに当たっていた。オーランド・ソーントンはラテン語で書かれたかなり古い書物に詳しかったと言う。

2013年9月18日水曜日

赤竜 1 その16

「女二人が共謀して爺様を殺したってのは、どうだ。」
 ライリーが言った。勿論本心から思っている訳ではない。ソーントンはかなりの高齢だった。イヴェインは後2,3年待っても不満はなかったはずだ。慌てて 殺す理由はない。それに彼女が遺産相続人に指定されていることを知ったのは、弁護士事務所でのことだったのは、疑いようがなかった。そうでなければ、余程 の芝居上手か、だ。
 レインボウブロウは始めから全て知っている様子だった。多分遺言の内容も知っていた。彼女ならソーントンでなくイヴェインを殺した方が得なのだ。或いはソーントン殺しをイヴェインになすりつけて、遺産の権利を横取りするとか・・・。
 警察はイヴェイン・カッスラーとレインボウブロウに街から出ないよう勧告した。せめて彼女たちが犯行に全く関与していないと判明するまで。

2013年9月16日月曜日

赤竜 1 その15

 レインボウブロウは白いTシャツの上に例の黒いレザーブルゾンを着て、サングラスをかけて現れた。オーリーとライリーが驚いたことには、クーパーが彼女に「初めてお会いしますね。」と挨拶したことだった。
「オーランドはあなたの成長を何時も楽しそうに語って聞かせてくれたのに、実際に会わせてもらったことは一度もなかった。」
 奇異な黄色い目を持つ娘は、弁護士に会えても、そんなに嬉しそうではなかった。
「あなたの誠実な職務遂行を期待しています。」
と彼女は言って、遺言状の開封を促した。
「それでは、始めましょう。」
 クーパーは金庫から一通の封筒を取り出した。
 形式は変わったところのない遺言状だった。オーランド・ソーントンはイヴェイン・カッスラーが彼にどんなに誠実に仕えてくれたかを謝辞をもって説明し て、彼女に自分の資産の全てを相続させることを遺言していた。その資産は銀行口座にある500万ドルと屋敷の全て、家具も骨董品も古書も含まれていた。と りわけ「最も古い書物」は誰にも譲ってはいけない、とわざわざ書かれていた。
 イヴェイン・カッスラーはまた泣き出した。彼女は一夜にしてミリオネイアになってしまったのだ。スラム育ちの少女がたった半年仕えただけの主人の相続人になったのだ。オーリーもライリーも信じられない気分で互いの顔を見合わせた。
「ただし、これらの相続にあたって、条件が一つある。」
とクーパーが読み進んだ。
「イヴェイン・カッスラーは我が友レインボウブロウの希望を全て叶えること。もし相続人がレインボウブロウの希望を一つでも叶えられない場合は、相続人は彼女が要求する”最も古い書物”を彼女に速やかに渡し、彼女の将来に関して一切関わらないことを誓うべし。」
 遺言状が書かれた日付を読み上げ、クーパーは全員にソーントンの署名が本物であることを確認させた。
 最後の条件を自分の目で読んで、レインボウブロウが女性らしくない下品な単語を吐いた。
「ああ、クソ。」
 イヴェインがギクリとして、クーパーとライリーも彼女を見つめた。彼女が遺言の内容に不満を持ったと考えたのだ。オーリーだけが、彼女の悪態の意味を理解した。
「”最も古い書物”って言うのは、盗まれた本のことだな。」
 レインボウブロウが頷いた。
 ライリーがオーリーを見た。
「盗まれた?ソーントンの頭以外に盗難に遭った物があったのか。」
 露骨な表現にイヴェインが彼を睨みつけた。クーパーが刑事たちを見比べた。
「頭を盗まれたとは・・・どう言う・・・オーランドはどんな殺され方をしたのです。」
 被害者の頭部が無くなっていることはまだ公表されていなかった。少し気まずい雰囲気になり、ライリーがオーリーに「すまん」と囁いた。
 突然レインボウブロウがクーパーに質問した。
「オルランドはあなたに、あの夜何をするつもりだったか、明かしたのか。」
「あの夜?」
 弁護士はちょっとだけ考えた。
「彼が殺された夜ですか。あの夜に、と言うことは聞いていないが、彼がイヴェインに相続させたい物の説明をしておきたい、と言っていたことがありますよ。」
「彼は書斎で殺された。多分、本の説明をしたかったのだろう。」
 オーリーの言葉に、よく事情を呑み込めないライリーが尋ねた。
「説明って、古書の売買に関することか。」
 レインボウブロウがまたクーパーに質問した。
「あなたは、あの書斎に入ったことがあるのか。」
「何度でも、ありますよ。仕事の話は何時もあそこでしていた。オーランドはどっしりとしたオークの机が気に入っていた。私が誉めると、机くらいなら遺言で譲ってやるよ、と彼は笑いながら言ったもんです。それには書いていなかったけど。」
「机くらいなら、何時でも持って行くといい。」
とレインボウブロウ。相続人たるイヴェインの意見など求めなかった。イヴェインが彼女の希望を全て叶えなければならないのであれば、当然だった。
 彼女は立ち上がった。
「相続手続きを直ちに始めてもらいたい。イヴェインが暮らしに困ることがないように、急いで欲しい。」

2013年9月15日日曜日

赤竜 1 その14

 レインボウブロウは相手の質問をはぐらかす名人だ。オーリーは彼女がこちらからの質問に何一つまともに答 えていないことに気付いた。質問の内容が彼女自身の素性やオーランド・ソーントンの実体に触れると、直ぐに彼女の方から質問をしたり話題をすり替えた。彼 はひどい消化不良を起こした気分だったが、それでも遺言状立ち会いの許可はもらえた。相棒のライリーを同伴しても良いと言われたし、モーテルでイヴェイン を拾って弁護士の事務所に送ることを依頼されもした。
「もしこれで犯人の見当がつけば昇給間違いなしだろうけどね。」
とライリーが運転しながら言った。殺人事件が短期間で解決するなど、滅多にないことだ。現行犯でなければ、まず無理だ。警察は仕事をいっぱい抱えている。一週間もすればこのソーントン殺人事件もお蔵入りになってしまう。
 モーテルに約束の時刻に到着すると、イヴェイン・カッスラーがはにかみながら現れた。薄い水色のビジネススーツがよく似合っている。女中より何処かの会 社のオフィスで働いている様に見えた。ライリーが嬉しそうなので、オーリーもちょっと鼻が高かった。「弁護士さんと間違えそうだ。」
 ライリーは誉め上手だ。イヴェインが照れ笑いした。
「初めてこんな服を着たの。レニーがいろいろ用意してくれていたのに、今まで着る機会がなかったから。」
 オーリーはドアを見た。
「レニーは?」
「彼女は明け方に出かけたわ。事務所で落ち合いましょう、て。」
 屋敷に戻って、また地下の秘密のプールで泳いでいるのだろうか。彼はレインボウブロウがスーツを着て現れるとは予想しなかった。
 クーパー弁護士の事務所はビッテンマイヤー法律相談所と言うビルの中にあった。全て弁護士事務所だ。家主のビッテンマイヤーが会社形式で複数の弁護士を 抱えている。成績の良い弁護士は良い場所にオフィスをもらえる。クーパーも上階の見晴らしの良い部屋をもらっていた。口ひげの濃い大柄な男だ。目つきが鋭 かった。刑事に警戒しているのかも知れない。
 挨拶の後で、オーリーたちはソーントンの素性について尋ねた。
「誰に聞いても満足な答えをもらえないもんで。」
「私も彼の全てを知っていた訳ではありませんよ。」
 クーパーは秘書を介さずに自分でコーヒーを入れた。イヴェインの前にカップを置いた時だけ、彼は優しい微笑を彼女に見せた。
「今度のことは大変だったね。」
 屋敷に顔を出したことがあったので、イヴェインは彼と顔なじみだった。
「まだお葬式の段取りもしていないの。」
 彼女が心細く呟いた。
「私がちゃんと手はずを整えるよ。オーランドから頼まれていた。彼の年齢では何時何があってもおかしくなかったからね。でも、犯罪の犠牲者になることは彼にとっても私にとっても予想外だった。」
 そして、弁護士は刑事たちを振り返った。
「オーランドの素性についてお尋ねでしたね。」
 彼は客たちの前の肘掛け椅子に腰を下ろした。
「私どもの法律相談所では、顧客の素性を無闇に明かすことはしません。しかし、イヴェイン・カッスラーはオーランド・ソーントンの相続人に指定されていますから・・・」
「何ですって。」
 イヴェインが腰を浮かせた。相続人の件は初耳だったらしい。オーリーが彼女の手を掴んだ。
「座って、イヴェイン。クーパー氏はこれからその説明をして下さるんだ。」
 イヴェインがのろのろと座り直したので、クーパーが彼に感謝の意味を込めて頷いた。
「オーランドはイギリス人です。」と弁護士は語り始めた。
「つまり、彼がそう言ったのです。向こうではちょっとした旧家の息子で、商売をしていたが上手くいかなかったので、新天地を求めてアメリカに渡って来たと 言いました。第二次世界大戦が始まる前のことです。それから彼は各地を転々と移り住み、この街に流れ着いた。私の客になったのは、もうかれこれ10年以上 前のことです。」
「資産家の様に見受けられたのですが。」
「彼の職業に関しては知りません。私が知っていた限りでは、彼は骨董品や古書の売買を手がけていました。恐らく、イギリス時代からの資産がかなりあって、 それを元手に道楽を兼ねた商売をしていた様子です。彼の資産管理を任されていますが、その全容は遺言状の開封の際に明かしましょう。」
 その時、秘書がレインボウブロウの来訪を告げた。

2013年9月13日金曜日

赤竜 1 その13

レインボウブロウはイヴェインを真っ直ぐに見た。
「彼は相続人に血縁を問題にはしなかった。」
「レニー、あなたは旦那様の何に当たるの。」
 それがオーリーにも一番気になる疑問だった。屋敷の主が無惨な死体で発見された。彼の娘と思われた女性は血縁関係を否定し、夫婦でもなさそうだ。彼女が相続権や怨恨と何らかの関わりがあれば、容疑者の一人にもなるのだ。
 給仕が料理を運んできたので、会話は一時中断された。オーリーはレインボウブロウが素晴らしい料理人の店を選んだことに気付いた。どの料理も美味しかっ た。食欲がなさそうだったイヴェインでさえ、食べている時は幸せそうだった。当のレインボウブロウは魚のカルパッチョを少し口に入れただけで、後はワイン をゆっくり味わっていた。
「遺言状が正しく守られることを見届けたら、私はこの街を出て行こうと思う。」
と彼女が言い出したのは、メインディッシュが終わった頃だった。イヴェインが手にした水のグラスを危うく落とすところだった。
「どうして、何処に行くと言うの。あなたの家でしょう、あのお屋敷は・・・」
 するとレインボウブロウが彼女に質問で返した。
「あなたはあの家に住めるのか。オルランドの血で汚されたあの場所に。」
 オーリーはイヴェインの顔から血の気が失せるのを感じた。彼女は昨晩の惨状を思い出してしまったのだ。グラスを置いて、彼女は両手で顔を覆った。
「あの家は私が生まれて初めて人間として扱ってもらえた家。旦那様は私には神様だった。誰があんなことをしたの。」
 泣き出してしまった。オーリーは困惑して、レインボウブロウを見た。なんとかしろよ、と目で訴えた。レインボウブロウは彼女を泣かせたことを後悔していなかった。
「デザートがまだだ。食べてから帰るか、それとも今帰るか。」
と尋ねた。

2013年9月10日火曜日

赤竜 1 その12

 イヴェインはレインボウブロウを新しい主人だと思っている様子だった。彼女は黄色の目をした娘に店を選んでくれと頼んだ。彼女はファーストフードの店以 外に入った経験がなかった。レインボウブロウは小さなイタリアレストランを選んだ。入った所がカウンター式のバーで、奥にテーブルごとに壁で小さな仕切を 造った小部屋様式の食事スペースがいくつかあって、カップルや少人数のグループがささやかな幸せの時間を過ごせるようにとセッティングされていた。オー リーは内心安堵した。このランクの店なら三人分の食事代くらい彼でも払えた。
 応対に出た給仕にレインボウブロウがテーブルを指定した。
「もし予約や先客がいなければ、だけど。」
と彼女が珍しく遠慮勝ちに言うと、給仕は微笑んで彼女が指さした一角に彼らを案内した。
 イヴェインは椅子を引いてもらって緊張した声で礼を述べた。それから二人に恥ずかしそうに言い訳した。
「こんなきちんとしたお店は初めてなの。」
 もっと格式張った店も世の中にはあるのだ、とオーリーは言おうとして止めた。店主が現れてレインボウブロウに「お父様のご不幸」に対してお悔やみを言っ たからだ。レインボウブロウはしおらしく励ましの言葉を受けて、それからオーリーとイヴェインを「友達」として紹介した。それでオーリーは彼女が望んでい るであろう芝居をしてみた。
「レニーが落ち込まないように、励ましているんです。」
 店主が頷いた。
「どうぞ、ごゆっくりなさって下さい。」
 彼は「ソーントン様に」とワインを1本進呈してくれたので、それをすすりながらメニューを眺めることになった。
 イタリア語はわからなかったが、料理の正体はなんとなく掴めたので、オーリーはイヴェインの料理も注文してやった。レインボウブロウは魚の前菜を注文しただけだった。
給仕がいってしまうと、イヴェインがレインボウブロウに尋ねた。
「明日から私はどうしたらいいのでしょう。」
 不安の響きが声にあった。彼女には身寄りがない、とモーテルに行く道中オーリーはレインボウブロウから聞かされていた。イヴェインはスラムの酷い環境で 育った。両親はいないのと同じで、彼女が10代の半ばになる頃にはどちらも行方不明だった。兄は刑務所で亡くなった。喧嘩で殺されたと言う噂だ。イヴェイ ンは生きていく為に自分を売ろうとしていた。そしてオーランド・ソーントンとレインボウブロウに出会った。
 ソーントン家で大事にしてもらったイヴェインは元の暮らしに戻ることを恐れていた。若いから、なおさらだ。ここでレインボウブロウから解雇を言い渡されたらどうしよう、と恐れがあった。
「明日弁護士のナサニエル・クーパーに会う。」
と”お嬢様”が言った。
「あなたも一緒だ。そこでオルランドの遺言状を開封する。」
 オーリーは興味があった。屋敷の台所で彼女が口にした奇妙な「本の継承権」の謎が解けるのだろうか。明日の勤務ローテーションでは遺言状開封に立ち会えないこともない。
「俺も立ち会っていいかな。」
と彼は口をはさんだ。
「遺言状には犯人も興味があるかも知れない。どんな人間が他に立ち会うのかな。」
「私は旦那様の親族に会ったことがありません。」
「彼の親族は大方死に絶えた。」

赤竜 1 その11

どう言えばいいのかな、と言いたげな顔でレインボウブロウが横を向いた。
「イヴェインは法律上の養女ではない。身分的には、使用人だ。」
「だがソーントンは彼女を本の継承者に選んだ。」
「本と財産全てだ。その話をする予定の夜に彼は殺された。」
「君には相続する権利はないのか。」
「私は何も権利を持たない。私は財産を持たない。イヴェインがここの主人になる。」
「待ってくれ。」
 オーリーはまた頭がこんがらがりそうになった。
「君はソーントンのただの同居人だったのか。」
 彼女が彼に向き直った。
「そうだ。」
「ガールフレンドではないのか。」
「そんな者ではない。」
 彼女は棚の上の時計に視線を移した。
「そろそろイヴェインの所に戻ろう。夜は彼女を一人にしたくない。」
 イヴェイン・カッスラーはモーテルで大人しくテレビを見ていた。オーリーがレインボウブロウと共に訪れると、彼女は嬉しそうな顔をした。
「せめて今夜は、一人で過ごさなくてもいいのね。」
 レインボウブロウが彼女を抱き締めて挨拶した。アフリカ系のイヴェインは長身だ。レインボウブロウが子供に見えた。彼女がイヴェインに囁いた。
「ワールウィンド刑事が夕食に連れて行ってくれる。」
 イヴェインがこちらを見たので、オーリーはドキドキした。彼女は美しい。まだ子供っぽさが残る分、瑞々しい若さが内面から滲み出ていた。彼女はまだ19 歳だ。やっと夜の街を一人で歩ける年齢だ。小さくても大人の雰囲気たっぷりのレインボウブロウと一緒なら、誰からも見とがめられずに三人で歩けるだろう。
「夕食と言っても、ハンバーガー程度だよ。」
「いつも事件の被害者や遺族にそんな親切をなさっているの?」
「今回は特別。謎だらけなので、聞き込みを兼ねて誘っているんだ。嫌なら無理にとは言わない。」
 実際そのつもりだ。オーリーは立場を利用して女性を口説く程、擦れていないつもりだった。レインボウブロウが援護してくれた。
「オルランドの遺言の話もある。」
 

2013年9月5日木曜日

赤竜 1 その10

 インターネットで検索すると、「赤竜」は魔法使いの教科書だった。魔女になる為の儀式の方法や心 得、簡単な魔法等がしるされているらしい。わざわざ殺人を犯してまでして盗まなくても、魔法グッズの店に行けば置いてありそうな本だ。つまり、オーラン ド・ソーントンが持っていた「赤竜」はただの「赤竜」ではないってことだ。
 窓から午後の日差しが差し込んでいた。オーリーの侘びしい一人住まいのアパートが、この夕焼けが始まる少し手前の時間だけ綺麗な場所に見える。
 オーリーは5時間ばかり眠ったのだ。居間のソファの上だったので、寝心地が良いとは言えなかったが。彼のベッドにはレインボウブロゥがいるはずだ。彼女 は一度イヴェイン・カッスラーが宿泊しているモーテルに行った。女中の着替えを届けてやったのだ。それから彼のアパートまでついてきた。連れて来なけれ ば、また屋敷に戻ってしまうからだ。女性を部屋に入れたのは始めてだった。デートの経験はある。しかし、こんな部屋に来てくれる程の付き合いはしていな い。
 オーリーが背伸びをした時、寝室のドアが開いてレインボウブロウが出てきた。寝起きの顔ではない。疲れている様にも見えなかった。彼女は昨夜と同じ服装だ。彼は振り返り、声をかけた。
「コーヒーでも飲むかい。」
「水を戴く。」
 彼女は自分で小さな台所に入った。
「あなたは、コーヒーを飲むか。」
「ああ、出来ればお願いしたい。砂糖抜き、ミルク入り。」
 彼女が薬缶に水を入れ、コンロにかけた。水のコップだけ持って居間に戻り、彼の横に立った。パソコンの画面を覗き込み、彼の検索結果を読んだ。
「一般の”赤竜”はこの通りだろう。」
と彼女が認めた。オーリーはエクスプローラーを終了させ、画面を消した。
「ソーントンの本は他とどう違うんだ。」
「古い。」
 簡単な答え。
「100年前の物か、それとも、先祖伝来の物か。」
 彼女はオーリーが寝ていたソファに座った。
「先祖伝来ではない。厳密な意味では。あれは本の所有者が選んだ継承者に代々受け継がれた本だ。継承者が子孫でなければならないと言う決まりはない。」
「すると、君がその継承者かい。」
「否。」
 彼女は黄色い目で彼を見つめた。
「彼が選んだのはイヴェイン・カッスラーだ。」
「すると・・・」
 オーリーは情報を整理しようと試みた。
「イヴェインはソーントンの養女なのか。」

2013年9月4日水曜日

赤竜 1 その9

「それじゃ、何だったんだ。」
 レインボウブロウは奇形なのか。家族扱いされていなかったのか、とオーリーは彼女を気の毒に感じた。
 彼の問いに彼女が答えた。
「友達。人間の唯一人の友達。」
 遠くでブラインドが風でバタバタと音をたてた。
 彼女が立ち上がった。
「書斎に入っていいか、彼の首の他に盗られた物がないか、調べたい。」
 それは勿論オーリーの質問リストに入っていた。しかし彼は疲れていたし、被害者の遺族にはもう少し落ち着いてから現場を見てもらうつもりだった。だが、 レインボウブロウにその心遣いは無用だった。そして彼はこの奇妙な娘に興味を抱いており、疲れよりもそれは強かった。彼は彼女の先に立って、彼女の家を案 内した。
 現場はまだ本が散乱していたし、生々しい血痕と血溜まりがそのまま残っていた。レインボウブロウは惨劇の跡には目もくれないで、本を眺めた。嘗める様に床の書物を眺めていき、それから書棚に残った本の背表紙を見た。オーリーは彼女の呟きを聞いた。
「ない。」
「何が。」
「書物が一冊。」
 オーリーは足元の古書を見下ろした。古書のコレクターなら欲しがるだろうが、彼には焚き付けにしか値打ちを見出せないラテン語の書物ばかりだ。
「それは値打ち物かい。」
「持つ人間に拠る。」
「コレクターには垂涎の的でも、俺たちの様なぼんくらにはゴミだってことか。」
 オーリーは冗談を含めて言ったのだが、レインボウブロウは頷いた。
「金銭には換えられない価値がある。オルランドが命を失う程の価値だ。」
「本の題名は・・・古物商に流れるかも知れない。」
「盗人はあれを売る目的で盗ったのではない。」
「コレクションか。」
 鈍いねえ、と言いたげに彼女は彼をまた見た。
「使うのが目的だ。読んで、理解して、書いてあることを実践する。」
「どう言うことなのか、はっきり言ってくれないか。」
 疲れが彼に声を荒げさせた。彼女は動じなかった。
「ぼんくらに言っても仕方がない。」
 彼女は書斎から出て行きかけた。オーリーは溜息をついた。この女性と付き合うには忍耐が必要だ。
「悪かった、もう大声を出さないから、本の題名を教えてくれ。」
 彼女が振り返らずに答えた。
「”赤竜”。」

2013年9月3日火曜日

赤竜 1 その8

 台所は綺麗に掃除が行き届いていた。イヴェインが働き者である証明だ。オーリーは冷蔵庫を開き、食品や飲 料水を見た。イヴェインは出来合の食品を買わないのか、野菜や肉と言った食材が多く見られた。飲料水はビールとミネラルウオーターだけだった。朝からビー ルを飲む訳にはいかないので、水を出してタンブラーに注いだところへ、レインボウブロウが現れた。タオル地のバスローブを着てスリッパを履いていた。オー リーは水の瓶を掲げて見せた。
「勝手に飲ませてもらうけど、いいだろう。」
「ご自由に。」
 レインボウブロウは手近の椅子を引き寄せて座った。
「尋ねたいこと、とは。」
「ああ・・・」
 オーリーは疲れた頭を整理させようと務めた。
「昨夜の事件は物取りではなく、怨恨ではないかと、俺と相棒は考えているんだが、ソーントン氏が他人から恨みを買っていた様子はなかったかい。」
 すると彼女は彼が予想しなかった返答をした。
「彼の個人的な生活は知らない。」
「でも・・・」
 オーリーは体を前に乗り出した。
「君はここに住んでいるのだろう。」
「四六時中一緒にいる訳ではない。」
「家族なのに、無関心かい。」
 彼女の目を見て、彼はギョッとした。思わず体を遠ざけた。レインボウブロウの目は虹彩がなかった。全体に薄い黄色の眼球の真ん中に猫みたいな縦に細い瞳孔があるだけだった。
 オーリーの驚愕を察して、彼女はローブのポケットからサングラスを出してかけた。
「彼はこんな目をしていない。」
 現在形で言ってから、言い直した。
「していなかった。あなたも、イヴェインも、人間はこんな目はしていない。私たちは同じ家に住んでいたが、家族ではなかった。」

2013年9月1日日曜日

赤竜 1 その7

「だが、立ち入り禁止だ。」
 しかし、入り口に黄色いテープを張っているだけだ。レインボウブロウがテープをくぐり抜けて中に入っても、咎める見張りもいない。オーリーは溜息をついた。まだ事件現場に誰も立ち入らせたくなかった。
「俺が家に帰る途中で屋敷に寄って、彼女にここへ戻るよう説得してくるよ。」

 帰る途中などではなかった。ソーントンの屋敷はオーリーの侘びしい一人住まいのアパートから署をはさんだ反対側にあった。いい加減疲 労していたが、オーリーは車をそこの門の前に停めた。「勤務中」の札をダッシュボードの上に出しておいて、彼は敷地に足を踏み入れた。書斎の割られた窓の ブラインドが風で揺れた。
 ドアのベルを鳴らしてみたが、誰も応えなかった。鍵は開いていた。オーリーは中に入った。窓は閉め切られていたがブラ インドの隙間から差し込む日光で明るかった。居間も台所もイヴェインの部屋も客間も、夕べのままだった。書斎も死体がなくなっているだけで、散らかったま まだ。彼はレニーを呼んでみたが、返事はなかった。残るは主寝室だけだった。
 広いだけが取り柄の様な寝室は女性が寝起きしている痕跡が全くなかった。大きな ベッドは真ん中だけが使われていたことを示す様に窪んでいた。クロゼットの中は老人の衣装だけだった。しかしオーリーは昨夜見落とした物を発見した。それ はクロゼットの壁に造られた小さなドアだった。オーリーが腰を屈めて抜けられる高さだ。毎日誰かが握るらしく、真鍮のドアノブはツルツルだ。試しにオー リーが掴んで引いてみると、ドアは簡単に開いた。
 ドアの向こうは階段だった。闇に吸い込まれる果てしなき地獄行き、と言うこともなく、下の方が明るく見えた。地下室なのか?クロゼットの奥の隠し部屋と言う訳か?
オーリーは声をかけてみた。
「レニー、そこに居るのかい。」
 返事はやはりなかった。彼は意を決してドアをくぐり抜けた。階段は予想に反して天井が高く、楽に下りることが出来た。階段は途中でUターンしており、その下に明るい空間が広がっていた。
 壁の高い位置に窓があった。庭の何処かにこの窓が面しているのだ。明かりはそこから差し込んでいた。日光に照らされて水が光っていた。地下室の四分の三はプールだった。
オー リーは床に下りた。白いタイルが階段状に水の中に消えている。向こう岸は自然の岩盤で、青い水は濃紺になり、底が見えなかった。屋敷の敷地面積の半分の広 さだろうか。水深はいかほどだろう。オーリーは屈んで、水に触れてみた。氷の様に冷たい水だ。しかし一年を通してこの水温なのかも知れない。泳ぐには冷た すぎた。何の為のプールなんだ、と彼はタイルの床の部分を見回した。部屋の隅に白い木製のベンチとスチール製のロッカーがあった。ベンチに黒いレザーのブ ルゾンとパンツが投げかけてあった。
 やはりレインボウブロウはここに来たのだ。他に身を隠す場所がないので、オーリーは階上へ上がることにした。彼が階段の方へ体を向けた時、後ろで声がした。
「何?」
 オーリーは慌てて振り返った。手が背中に回ったのは、ベルトに差した拳銃を求めたからだ。
 水面からレインボウブロウが顔だけ出してこちらを見ていた。こんな冷たい水にあんなに長い時間潜っていたのだろうか。
「お早う。」
 オーリーはエキセントリックな女に声をかけてみた。返事は「何の用。」だった。
 彼は階段を指さした。
「少し尋ねたいことがある。台所にいるから、上がって来てもらえないかな。」
 彼女が水中で頷いた。
「わかった。余り待たせない。」

2013年8月30日金曜日

赤竜 1 その6

 夜が明けた。オーリーは勤務明けにモーテルに寄ってみた。ドーナツと紙パックのミルク持参だ。女性 たちを送っていった制服警官に教えられた部屋のドアベルを押すと、窓のブラインドが動いて、誰かが指で作った隙間から外を覗いた。栗色の指だ。彼は紙袋を 振って見せた。ドアが開いた。イヴェイン・カッスラーが疲れた顔で現れた。服は昨夜のままだった。
「お早う。」
 オーリーは務めて明るく声をかけた。
「少しは休めたかい。」
 イヴェインが小さく首を横に振った。
「やっと事件以外のことを考えられるようになったところ。」
「じゃあ、ドーナツを食べて眠るといい。」
 差し出された袋を、イヴェインはぼんやりした顔で受け取った。
「有り難う。夕方まで寝ていていいかしら。」
「いいとも。」
 質問したいことがあったが、今日はよそう。オーリーも疲れていた。
「勤務交代で、別の刑事が来るかも知れないが、俺が担当だから、困ったことや思い出したことがあれば、ここに電話して。」
 携帯電話の番号を彼女に渡すと、初めてイヴェインは弱々しく微笑んだ。笑うと右の頬にえくぼができて、可愛らしかった。
 オーリーは彼女の肩越しに室内に視線を向けた。
「レニーもここに泊まったのかい。」
 イヴェインが視線を彼からはずした。ちょっと躊躇いがちに言った。
「いいえ・・・その・・・彼女は明け方に帰ったの。」
 オーリーは彼女に視線を戻した。
「帰ったって?ソーントンの屋敷に?」
 きつい口調になっていたのかも知れない。イヴェインは身を縮めて頷いた。
「だって、あそこは彼女の家だし・・・」


2013年8月29日木曜日

赤竜 1 その5

 彼女はドアを乱暴に叩いた。騒がしいと叱られても構わない、と思った。窓が割られる音がして、彼女の緊張 は高まった。スラム育ちの娘は、夢中でドアに体当たりした。分厚いくせに古くて脆いドアは、あっさりと破られた。イヴェインは勢い余って室内によろめき 入った。書棚は倒れていなかったが、本と言う本が床に投げ出されていた。その下から見覚えがあるズボンをはいた脚が出ていた。イヴェインは主人の名を呼び ながら、本を彼の体の上から投げ捨て、重たい埃だらけの紙の山から救い出そうとした。しかし数分後に彼女が目にしたものは・・・。
 事情徴収は彼女の涙で屡々中断された。記憶も所々曖昧になっていて、正確な時刻や順番がなかなか思い出せなかったりした。オーリーは彼女を慰め、励ました。そして彼女が大体を語り終わり、落ち着きかけた時に、彼は一つの疑問を投げかけた。
「”お嬢様”は何時から出かけていたんだい。」
 屋敷に”お嬢様”の部屋はなかったはず、と彼は思った。老人と同じ部屋で寝起きしているのであれば、話は別だが。
 イヴェインが洟をかんで答えた。
「レニーは何時も日が落ちると出かけるの。そして夜明け前に帰って来る。何処に行くのか、知らないわ。なんだか、聞いてはいけないこと、て感じだった。」
 オーリーがイヴェインの肩を抱いて部屋から出ると、廊下のベンチに”お嬢様”が座って待っていた。彼女も行き場がなかったので、ついてきたのだ。壁に頭 部をもたれかけて、目を閉じていた。疲れている様子だ。オーリーたちが廊下に出た時、彼女の耳が動いた様な気がして、オーリーはビクッとした。
「終わりましたよ、ミズ・・・」
 長い名前だ。イヴェインがまた紹介してくれた。
「レインボウブロウ、レニーと呼んでいるの。」
 ”お嬢様”が目を開いて立ち上がった。オーリーたちを振り返らずに尋ねた。
「もう、彼女を連れて帰っていいか?」
「ああ、何処に帰るつもりです。」
 オーリーは最寄りのモーテルを抑えていた。女性二人、犯罪現場に帰したりしたくない。
 果たして、レインボウブロウはイヴェインを見て、
「屋根がある所」
と言った。イヴェインが屋敷を出る時に急いで持ち出したショルダーバッグから、クレジットカードを出した。
「一晩ぐらいなら、ホテルでも泊まれるわ。旦那様が買い物用に持たせて下さったの。」
 そして、主人を思い出して、また彼女は涙ぐんだ。レインボウブロウが彼女の腕を掴んで引き寄せた。そして、オーリーを見たので、彼は警官に案内させることを約束した。
 身内が死んだのに、何故この娘は泣かないのだ、とオーリーは素朴な疑問を抱いた。女中がこんなに嘆き哀しんでいるのに。
 報告書を書いていると、ライリーが別の事件の報告を受けた。上着を着ながら彼はオーリーに来なくていい、と言った。
「制服と一緒に行く。夫婦喧嘩の行き過ぎで傷害事件に発展だ。」
「当ててみようか。」
 オーリーはタイプライターを叩きながら言った。
「ボビーとリックの男夫婦だろ。」
 ライリーは肩を竦めて「当たり」と表現した。
「このタイプ、Rが摩耗しているんだよな。」
 オーリーは刑事部屋の全員が不満に思っていることを口に出した。
「パソコンでも買ってくれればいいのに。」
「市の予算が崩壊寸前なのに、贅沢言わない。」
 ライリーがにやけた。
「交通課か、内部調査室で書いてくれば?」

2013年8月26日月曜日

赤竜 1 その4

刑事も目撃者も疲れていたが、事情徴収は必要だった。イヴェインは屋敷の外に知り合いがいなかったので、署に連れて行かれた。そこで死体発見の経緯を説明させられた。時々激昂することがあったが、粗筋は簡単だった。
 夕食の後で、主人のオーランド・ソーントンが彼女に11時に書斎に来るように、と言いつけた。書斎はソーントンの聖域だった。老人はこれまで一度もイ ヴェインを中に入れたことがなかった。イヴェインは一度だけドアの隙間から中を覗いたことがあった。古い黴臭い書物がぎっしり詰まった背の高い書棚が見え ただけで、彼女は興味を失って、それ以来その部屋の存在を気にしなくなった。だから、書斎に来いと言われて驚いたのだ。
ソーントンは普段夕食の後かたづけが終わればイヴェインを自由にさせた。彼女は近所の映画館へ出かけたり、リビングで好きなテレビ番組を見たり、屋敷に来 てから習った紙人形造りをして寝る前の時間を潰した。友達はいなかった。屋敷に来てまだ半年で、近所には彼女と同じ環境で育った人間がいるようにも見えな かった。だから、彼女は普段10時前になればパジャマに着替えてベッドに入っていた。しかし、旦那様に「来い」と言われて、パジャマではまずいだろう、と 思ったので、昼間の服装のままでいた。ソーントン家ではお仕着せはなかったので、Tシャツとジーンズや綿パンツだ。
 11時に、イヴェインは書斎のドアの前に立った。ノックをしたが、返事はなかった。ノブを掴んで押したり引いたりした。やはり開かなかったので、彼女は 主人が中でうたた寝でもしているのでは、と想像した。それで、自分の部屋に戻って寝支度をしてから、もう一度書斎に戻った。ノックをしようと手を挙げた 時、中で物が崩れる大きな音がした。書棚が倒れた、とイヴェインは思った。
「旦那様、大丈夫ですか、何があったんですか。」

2013年8月25日日曜日

赤竜 1 その3

彼女の声は平坦だった。お嬢様に事件をどう説明するべきか、お嬢様が帰ってきて安心するべきか、彼女はまだ頭の中の整理が出来ていなかった。
 オーリーは門を振り返り、小柄な女性が制服警官の制止を押し切って庭に入ってくるのを見た。
 イヴェインがベンチから立ち上がったので、オーリーは彼女に確認の意味で尋ねた。
「彼女がお嬢様だね。」
 イヴェインは頷いた。
「レインボウブロウ様です。」
 小柄な娘が二人の方へ真っ直ぐ歩いて来た。黒髪をボーイッシュに短く切りそろえたヘアースタイルで、着ている物も活動的だ。黒いレザーのブルゾンの下に鱗状のデザインのシャツを着て、黒いレザーパンツをはいていた。靴は黒いスニーカーだ。
「ミズ・ソーントン?」
 オーリーが尋ねたが、彼女は無視した。イヴェインを見て、短く質問した。
「なに?」
 屋敷の内外の騒ぎを尋ねたのだ。イヴェインが涙声で答えた。
「旦那様がお亡くなりになりました。」
 ”お嬢様”は彼女を暫く見つめ、それからオーリーに初めて視線を向けた。
「誰。」
 オーリーはバッジを出した。
「市警のオーランド・ワールウィンド刑事です。」
 彼は娘の目を見た。こんな目をした人間を見たのは、初めてだ、と感じた。娘の目は奇妙に見えた。何が奇妙なのか、判明するのは、翌日のことだったが、オーリーはこの時既にこの若い女性に奇異なものを感じた。
「彼は何処。」
と彼女がイヴェインに尋ねた。イヴェインが躊躇いながら、屋敷の窓を指さした。パジャマを着た死体が横たわっていた書斎の窓だ。丁度その時、黒い死体袋を 持った警官たちが出て来た。イヴェインはその中身が誰かわかった。彼女の息を呑む音で、”お嬢様”も察した。彼女が不意に死体袋に向かって歩き出した。 オーリーは留めようかと思った。女性が見るには酷すぎる死体だ。否、女性でなくても、身内には見せたくない状態だった。しかし彼女は袋に向かって声をかけ た。
「オルランド」
 オーランドのことだ。そして袋に手をかけた。運んでいた警官たちが驚いた。
「ちょっと・・・」
 オーリーは腹を決めた。どうせ遺体の身元確認はしてもらわねばならない。死体を見て彼女が卒倒するのが庭先か、モルグかの違いだけだ。
「いい、見せてやれ。」
 オーリーの言葉で、警官たちは足を止めた。娘は自分で袋のジッパーを開いた。イヴェインが後ろを向いた。目を硬く閉じて、1時間前に目撃したものを見た くない、と態度を明確にした。警官たちも視線を宙に泳がせた。オーリーは娘が何時卒倒してもいいように、彼女の背後に立った。
「頭が無い。」
 ”お嬢様”が呟いた。彼女は警官たちを見て、イヴェインを見て、オーリーと目を合わせた。驚きも恐怖もなく、事実だけを彼女は把握した。
「オルランドの頭は何処。」
 オーリーは正直に、しかし、塀の外には聞こえないように気遣いながら、答えた。
「無かった。犯人が持ち去ったらしい。」
 沈黙。オーリーはこの嫌な静寂の中で思った、何故この女は身内の首無し死体を目の前にして冷静でいられるのだ。
 ”お嬢様”が視線を死体に降ろした。そして、驚いたことには、彼女は身を屈めて死体に顔を近づけた。
「すまない。」
と彼女が死体に話しかけた。
「頭が無ければ、救えない。」
 彼女はジッパーを上げ、警官たちに頷いた。もう袋には目もくれないで、彼女はイヴェインとオーリーのそばに戻って来た。そして、イヴェインに尋ねた。
「何を知っている?」

2013年8月15日木曜日

赤竜 1 その2

 殺人事件の現場は多く見てきたつもりだったが、今夜の死体ほど奇妙なものはなかった。死体はパジャ マ姿だった。男性だ。それは肩から下の体格や、下半身を見ればわかった。相棒のライリーは傷口を見ないようにしていた。オーリーは血の匂いと古い書斎に立 ち籠もる埃に耐えかねて庭に出た。鑑識と検死官が入れ違いに中に入った。制服警官が若い女性を庭のベンチに座らせて声をかけているのが目に入った。彼女が 通報者だ。そして、死体の第一発見者。フェンスの外ではパトカーのルーフライトが点滅して、人の話し声が聞こえた。真夜中だと言うのに、近所の連中が物々 しい気配に感づいて起きて集まっているのだ。オーリーは女性に近づいた。
「ミズ・・・」
 名前を聞いていなかった。制服警官が彼女の代わりに教えてくれた。
「ミズ・イヴェインです。イヴェイン・カッスラー。」
 オーリーは頷いて、警官に行って宜しいと、合図した。警官は女性に優しい一瞥をくれて歩き去った。
 イヴェイン・カッスラーは涙でべとべとになった顔をオーリーに向けた。大きな目が不安で満たされていた。まだ若い。20代になるかならぬかの、ほっそり とした娘で、Tシャツとゆったりとした綿パンツを身につけていた。彼女が911をダイヤルしたのは日付が変わる前後だった。これから寝ようとしたところ だったのだろう。
「イヴェイン」
とオーリーは親しげに名前を呼んだ。
「君はここに住んでいるの。」
 彼女が小さく頷いた。何度も首をたてに振る。まだ落ち着いていないのだ。
「亡くなっていたのは、ソーントン氏だね、ここの主人のオーランド・ソーントン。」
 オーリーは少し不愉快な気分で被害者の名前を発音した。自分と同じ名前だ。イヴェインが蚊の鳴く様な囁き声で答えた。
「そう思います。旦那様のパジャマを着ていたから・・・」
 彼女の発音には微かに訛りがあった。ここよりずっと生活環境が悪い地区の住人の喋り方だ。なるほどな、とオーリーは思った、古いお屋敷にスラム育ちのアフリカ系の女中。
この家に来てから教育されたのだろうが、事件のショックで生まれた土地の言葉が出てくるのだ。
「この家は君とソーントン氏の他に誰かいるのかな。」
 現在のところ、オーリーもライリーもイヴェイン以外の人間に出会っていなかった。屋敷の間取りを調べ、犯人の遺留品や、犯人そのものを探した時も、多く の人間がいる気配はなかった。主人の寝室と、使われていない客間、使用人の部屋は台所の近くだった。がらんとしたリビングと食堂、バスルーム、そして死体 が発見された書斎だけの屋敷だ。老人と若い女中の二人暮らしだろうと想像した。しかし、イヴェインは首を振った。
「レニーが・・・お嬢様がいらっしゃいます。」
 オーリーは建物を見た。ツタがからまる平屋建ての屋敷が、パトカーの回転灯やライトに照らし出されて不気味に彼の前に立ち塞がっていた。
「そのお嬢様と言うのは、ソーントン氏の娘かい?ここに住んでいるのか?」
 イヴェインが返事を躊躇った。
「旦那様とお嬢様の関係は知らないんです。お二人がご一緒の時は、滅多になかったから。それに、私はお嬢様とは余り話ししたことなかったし・・・。」
 オーリーは少し困った。このソーントン家は普通の家庭ではないらしい。だから、普通でない殺され方をしたのか?
「そのお嬢様は今何処にいらっしゃるのかな。」
 オーリーが尋ねた時、イヴェインの視線が門に向けられた。
「あ、お嬢様だわ。」


2013年8月14日水曜日

赤竜 1

プロローグ

 館の中は血の匂いでむせ返る様だった。ブロンドの女鬼は兵士と召使いを食い殺してしまうと、手にこびりつ いた血を嘗めながら奥の部屋へと進んだ。木製の寝台に藁を敷いて寝ている若い男を彼女は戸口で眺めた。若者は熟睡していた。広間で起こった惨劇を知らず に、鬼が放った妖気によって深い眠りに落ちていたのだ。壁に取り付けられた松明の薄暗い明かりに、彼の寝顔が照らされていた。女鬼は彼を直ぐに食ってしま おうか、少しいたぶってやろうかと、迷いながら寝台に近づいた。男は彼女の一族を殺したのだ。昔からこの土地を支配していた彼女の一族を追い払おうとした 人間共に雇われた余所者だ。彼女には彼を食らう正統な理由があった。若者はまだあどけない表情さえ残していた。何故こんなガキに一族が倒されたのか、彼女 は理由がわからなかったが、今目の前で彼は無防備を曝していた。人間とは他愛ないものよ、と彼女は思いつつ、寝台の脇に身を屈め、男に顔を近づけた。その 時、何者かが彼女の上に影を落とした。彼女は顔を上げる前に後ろへ跳び下がった。
 寝台の向こうに若い女が立っていた。女鬼は不機嫌に唸った。その女はほんの少し前までそこにはいなかったのだ。炎のように赤い髪と血のように赤い目と赤 い鱗状の鎧を身につけた女だ。鬼が牙を剥き出して威嚇しても、彼女は動じなかった。寝台の上の男を守るかの様に立って女鬼を見つめた。鬼は血だらけの両手 を振り上げた。鋭い爪で赤い女を裂くつもりだった。しかし、その目に松明の明かりが壁に落とす赤い女の影が映った。鬼はもう一度牙を剥いて威嚇したが、そ れは獲物の確保ではなく、彼女自身の防御が目的だった。赤い女が手を動かした。鬼は素早く身を翻し、板張りの窓を突き破って屋外へ飛び出した。
 物音と冷たい風に、男が目覚めた。何が起こったのか、掴めぬまま、彼は寝台の藁の下に置いた剣を手に取り、広間に走った。そこは血の海だった。生きてい る者は誰もいなかった。鬼が現れたのだ、と彼は悟った。生き残ったのは彼唯一人だった。彼は寝台に駆け戻り、身の回りの物を手早く袋に詰め込んだ。枕代わ りにしていた古い書物も衣服にくるんで入れた。この本は先祖代々伝わる大切な家宝だ。彼が信仰する神の教会ではその種の書を読むことは異端として禁じられ ていたが、彼の一族は大切に隠し守ってきた。鬼が出る館に残す訳にはいかなかった。手早く身支度を済ませると、彼は松明を壁からはずして、厩へと駆けだし た。

2013年7月5日金曜日

中国のツボ

昔、南京町は人通りが少なくて、路面は穴ぼこだらけで、すぐそばの鯉川筋や元町商店街とは対照的な場所だった。

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母が勤めていた会社に、シンガポール帰りの奥さんが仲間に加わった。
母はすぐ仲良くなって、新入りさんは、お土産に、「これ、よく効くのよ」と言って、虎の絵が描かれたラベルの小瓶をくれた。中身は匂いのきつい軟膏で、母の肩凝りに効いた。

 薬は一月ほどでなくなり、母は自分で買うことにした。薬には中国語の説明しか付いていないので、名前がわからない。
「どこで買えると思う?」
と訊かれて、私は
「多分、南京町で」
と答えた。二人で出かけた。

 南京町は今ほどには観光客もいなくて、平日の昼間は閑散としていた。

 私たちは、一番大きな商行に入った。地下が中華食材売り場、地上が雑貨と漢方の材料の店だった。
ざっと眺めて歩いたが、珍しい物ばかりで、肝心の薬は見あたらなかった。
 母はカウンターに行き、店番の男性に薬の空瓶を出して見せた。
「これが欲しいんですけど」
「ああ、虎ですね」
店の人はあっさりと応え、カウンターの下から同じ瓶を取り出した。
 母は喜んで二つ買った。

 軟膏は日持ちするので、使い切る迄時間がかかった。 
 数ヶ月後、母は今度は独りで件の商行へ出かけた。
 男性は母を覚えていて、ニコニコと微笑んで迎えた。
「お客さん、良かったね」
「?」
 怪訝な顔の母に彼は言った。

「これから、大っぴらに買えますよ。 

 やっと輸入の許可が下りたんです。」

2013年5月3日金曜日

ゴールデンウィーク

店員「GWに休ませてください。」

店長「なに言ってるんだ。忙しいのに休んでもらっては困る!」

店員「でも予定入れちゃったんで・・・」

店長「休むって言うんだったらクビだ!」

店員「じゃ、辞めます。」

店長「ちょ・・・ちょっと待った! GW直前に辞められたりしたら困る。」

店員「じゃ、GW終わったら辞めます。」

店長「そ・・・そうか?  じゃ、GWは残ってくれるんだな。」

店員「はい。」

店長「良かった・・・」

店員「じゃ、GWに休んでいいですか?」

2013年4月7日日曜日

フナキの叛乱

 コウダが心筋梗塞で急死した時、フナキは言った。
「コウちゃん、会社に殺されたも同じや」
 ユウジは黙っていた。その時の彼は、彼自身がコウダに言った最後の言葉をひたすら後悔していたからだ。
 
 一月前、ユウジが風邪で仕事を休んだ後、コウダは、
「困るなぁ、いてくれなきゃ困る人なんだから、休むなよ。這ってでも出てこいよ」
と言った。だから、二日前にコウダが気分が悪いと言って欠勤したと知ったユウジは、仕返しとばかりに言ったのだ。
「俺には出てこいと言って、てめぇは休むのかい」
 勿論、コウダは休んでいたから、直接本人に言った訳ではない。独り言だったが、フナキがそばにいた。まぁ、フナキだから、いても気にせずに言えたのかも 知れない。ユウジとコウダとフナキは社内でも仲良しで、同僚たちから”トリオ漫才”とからかわれるほど、冗談を言い合う仲だった。フナキもその時は深刻に 考えていなかったから、
「コウちゃん、残業ばっかりで疲れてるからねぇ」
と言った。ユウジは「チェっ」と舌打ちした。
「俺だって残業、残業だよ。夕べだって、コウダと二人で10時までかかっていたんだ」

 コウダはあっけなく逝ってしまった。過労死だと、誰もが知っていたが、口には出さなかった。不況で街は同業者の倒産の噂が飛び交っていた。ここで会社に逆らって解雇されたら、後がしんどい。

 それからだ、フナキが上司に反抗的になったのは。
 呼びかけに返事をしない、電話に出ない、書類をため込んで渡さない・・・同僚には迷惑をかけないように気を遣いながら、上の人間には尽く逆らった。
「どうなってんだ、フナキは?」
 人事部長がユウジに尋ねた。
「仕事は真面目だが、態度が悪すぎる。このままじゃ、まずいぞ」
 人事部長は現場には理解がある方だし、フナキの反抗の対象ではなかったが、立場上、罰を与える役目がある。仲良しのユウジから注意するよう、それとなく 働きかけてきたのだ。しかし、ユウジはコウダに向けた己の言葉にまだこだわっていたので、彼女の遣り方にとやかく言う気持ちは起きなかった。
「怒ってるんでしょ」
「何に?」
「わかってるくせに」
 季節はずれの人事異動が発表された。配送センターの女傑が突然リストラされて、後任にフナキが派遣されることになったのだ。
「やることが汚いよ」
 フナキは離任の挨拶に来た時、ユウジにそう言った。
「行くなよ」
とユウジは彼女を見ずに言った。
「コウダが死んで、おまえまで行ってしまったら、俺は誰と漫才すりゃいいんだよ」
 フナキはそれには答えずに、こんなことを言った。
「後悔させてやるよ、あの爺どもに」
 そして、彼女はその夜、辞表を提出した。

「コンピュータが動かない!」
「B社関連のプログラムが立ち上がりません!」
「在庫管理システムにセキュリティーがかけられています!」
 事務所がパニックになっていた。
 コンピュータを使わない作業をする現場の社員たちは、営業や総務部が走り回るのを傍観していた。
「どうしたんです?」
 ユウジは人事部長を見かけて声をかけた。部長が深く溜息をついて答えた。
「フナキがコンピュータに何かしたらしい。重要ファイルのいくつかが、開かないんだ」
「アカギさんがいるでしょ。フナキの師匠じゃないですか」
「駄目だ、プログラムは作った人間でないと、呼び出せない。フナキは一切記録を残していないんだ。アカギにはファイルの名前もパスワードもわからない。」
ああ、とユウジは納得した。フナキと言う女は、何でも自分の頭の中に記録してしまう。書類の形で記録を残すことをしない主義だった。
「じゃ、フナキに訊けばいい」
「辞めた人間に頭を下げるのか?」
「メンツを気にしてる場合じゃないでしょ」

 結局、ユウジがフナキに電話をかけることになった。
「戻って来いって」
「嫌よ。今更、どの面下げて戻れるって言うのよ」
「だけど、コンピュータが動かないんじゃ、仕事にならん」
「システム部総動員で解析すれば?」
「時間がない。今日の仕事は今日中にやらなきゃならん。おまえだって、わかってるだろう。戻らないのなら、パスワードを教えてくれ」
ごねるかと思えば、フナキは意外にあっさりと「いいよ」と言った。

「パスワードを聞き出したのか、でかしたぞ」
「だけど、これから毎日、起ち上げる時に入力しなきゃいけないんですよ」
「かまわん、仕事が出来ればいいんだ。で、そのパスワードは?」
 ユウジは、上司たちに取り巻かれながら、ゆっくりとキーを叩いた。


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2013年4月5日金曜日

集会所

そこは、いつの頃からか、日当たりの良い場所になっていた。
 ちょっと広い庭と、崖の上に突き出た細長いテラス、見晴らしがいいし、風も適当に吹き付ける。何より、冬の日向ぼっこは最高だった。
 噂を聞きつけて、いつの頃からか、この界隈の連中が集まってくるようになった。
  めいめい思い思いの場所に陣取って、居眠りしたり、小声でお喋りしたり・・・。そこでは、仲の悪いヤツも礼儀を守って大人しかった。1丁目のおっさんと、 北通りのあんちゃんは、犬猿の仲だったが、ここでは並んで日向ぼっこしていた。あかねヶ丘の婆さんが、3丁目の姐さんに背中をマッサージしてもらって喜ん でいた。
 そこでは、のんびりと時が過ぎていた。
 きっと、お日様が暖かいから、みんなの心も温かくなるんだろう。
 世の中、何処でもこんな場所だったらいいのにな、と思った。

「ママ、あれ、見て」
「わぁ、すごい数の猫」
「へぇ、猫が集会するって、本当なんですね」
「でも、空き家の庭なんて、いい場所見つけたわね。あそこ、このバスの窓からしか見えないでしょ」


2013年4月4日木曜日

おいやん

 カオリが入社した時、既においやんはそこで働いていた。正社員ではなくて、パートの運転手だった。下請けと本社の間を品物を積んで行き来していた。陽気で冗談好きなので、誰とでも仲良く出来る人だった。
 あ、「おいやん」と言うのは、播州弁で「小父ちゃん」って意味だ。ホントはナカノさんって言うんだけど、みんな親しみを込めて「おいやん」と呼んでいた。
 カオリは、何故おいやんが正社員でないのか不思議だった。年齢的にも普通の社員と変わらなかったし、毎日通勤していたし、お昼は社員食堂でみんなと同じ給食を食べていた。一度、思い切って尋ねてみたら、おいやんは答えた。
「そうかて、気楽やんけ。」

 やがて会社が新しい配送センターを建設して、数名の社員をそこへ転属させた。センターの責任者はヤマダ課長と言う人で、ちょっと偏屈者で通っ ていた。彼は気に入らない部下には陰険な虐めをすることで有名で、部下たちは次々と脱落して本社に戻された。本社はちょっと困って、いろいろと人材を送り 込んでみたが、どれもヤマダ課長の眼鏡にかなわなかった。そこで、最後に、本社はおいやんを送り込んだ。
 おいやんの性格はヤマダ課長にも気に入られたようだ。そこで、結局10年ばかり、おいやんは課長と一緒に働いた。
 カオリがセンターの事務員として転属すると、仕事のノウハウを教えてくれたのは、上司の課長ではなくて、おいやんだった。課長と二人きりだと息が詰まっただろうが、おいやんがいてくれたのでカオリは何とか泣き言も言わずに仕事を覚えていった。

 大型台風が播州地方に多大な被害を及ぼした。
 課長の家もおいやんのトラックも水没した。勿論、会社も被害を受けた。
 おいやんは自分のうちのことは奥さんに任せて、連日会社の復旧作業に携わった。茫然自失の社員たちを叱咤激励して、力仕事に励んだ。
 カオリはこの時ほど、おいやんが頼もしく思えたことはなかった。
 そして、どうにか平常の生活が戻ってきた時・・・。

 カオリはおいやんが担いだ荷物を落っことすのを目撃した。おいやんは腰に手を当てて辛そうにあえいでいた。
「大丈夫?」
「ああ、ちょっと腰が痛いだけや」
 しかし、大丈夫ではなかった。次の日、おいやんは立てなくなって仕事を休んだ。おいやんがいなくなると、課長はパニックに陥った。仕事は山ほどあった。それを一人では消化しきれない。課長は電話で本社相手にまくしたて、手伝いを数名派遣させた。
 慣れた人間一人と不慣れな人間三人、比較にならなかった。
「専属をいれなきゃな」
 人事部長が呟いた。

 10日目に、おいやんがカオリのデスクに来た。
「くびになったよ。仕方ないやな、もう重い物持てへんから」
 カオリには晴天の霹靂だった。びっくりして見返すと、おいやんは笑った。
「せやけど、毎日来るから」

 そう、おいやんの奥さんは内職で下請け仕事をしていたのだ。おいやんは毎日仕事をもらって持って帰り、届ける仕事だけをすることにしたのだ。

「ひどいと思わない?」
 カオリはバーで先輩のナギサに訴えた。
「水害の時に、一番頑張ってくれた人をあっさり切ってしまうなんて。おいやん、可哀想よ」
「うん・・・」
 ナギサはちょっと考えて、慎重に喋りだした。
「おいやんさぁ、昔から腰が悪かったんよ。だから、正社員にならんと、いつでも休めるパートで我慢してたん。
 せやけど、今度のことで、無理してしもうたんやね。
 でも、これで良かったかも」
「なんで?」
「ずっとあそこの仕事続けていたら、おいやん、ホントに体潰してしまうとこやったよ。もう歳なんやもん。
 ええとこでドクターストップかかったんや。まだ仕事あるし、毎日、ここに来てるやん。ちょっとだけ寂しくなっただけやんか。」
「そんなもんかなぁ」
「そんなもんよ」


 おいやんが辞めて3週間目、ヤマダ課長が過労から風邪でダウンした。まだ新入りも入って間もないし、手伝いの社員たちも、勝手がわからない。配送センターはパニックになった。
 カオリの目の前で、人事部長が電話をかけた。
「もしもし、ナカノさん? 腰の調子どないやろ? え? ああ・・実はヤマダがダウンしてな、困ってる。
 頼れる人は、あんたしかおらんのや。
一日か二日でええさかい、手伝ってもらわれへんやろか?」

 そして、半時間後に、おいやんは照れくさそうにやって来た。
「まだ、少しは要りようらしいなぁ」
とカオリに笑いかけた。 
「せやけど、これっきりやで。いつまでも外の人間に頼ってたら、あかんで。ここの会社、ちと甘えがあるよってな。なんでも、安上がりなもので済ませようとする。ちゃんと専属の人間、育てなあかんわ」
「そんじゃ、おいやん、監督しに来てよ」
「おお、毎日来るわいな」

 おいやんは、約束通り毎日品物を運んでやって来る。カオリは課長に見つからないように、こっそりおいやんにお菓子を渡すのが日課になった。

2013年4月2日火曜日

座敷豚

 家に帰って、玄関の戸を開いたら、上がり口に豚が座っていて、三つ指ならぬ、偶蹄の二つ指をつき、「お帰りなさいませ」と言った。
 豚を飼った覚えはないので、慌てて外に出て、表札を確認した。間違いなく、私の家だ。豚は私が上がるのを待っている。
 仕方がないので、中に入った。
 豚が夕食の支度をしてくれていた。おかずは豆腐の回鍋風炒めに、卵とキクラゲのスープ。 豚なのに、料理が巧い。
量が多いので、残すと、豚は私の残飯も綺麗に食べた。
 リビングでテレビを観ている間、豚は座敷に座布団を敷いて座っていた。何か針仕事をしていた。
 私は昼間の疲れが出て眠くなり、先に休んだ。豚が何処で寝たのか知らない。
 翌朝、寝坊しそうになって妻にたたき起こされた。豚はいなくなっていた。そう言えば、昨夜、妻は何処にいたのだろう。豚のことを質問したかったが、遅刻しそうだったので、聞きそびれた。
 その夕刻、家に帰ると、豚はおらず、妻もいなかった。
 座敷でトドが寝ているだけだった。

2013年3月31日日曜日

入れ替え

「ごめんね、小夜子さん。 だけど、早紀ちゃんは、一生守るからね。」
 清美は仏壇の前で手を合わせた。小さな遺影の小夜子が微笑んでいる。
 清美が飛田耕治の後妻に入ったのは、耕治の前妻小夜子が亡くなってから5年後だった。耕治との出会いが、小夜子の没後1年目だったし、付き合いだしたのも結婚の前年からだったから、耕治の二人の子供たちからも反発はなかった。
 耕治は、清美と出会う前に、家から前妻の匂いがするものを取り除いていた。いつまでも哀しみに浸りたくなかったのだろうし、子供たちにも前向きに生きて欲しかったからだ。
 清美が飛田家に入った時、家の中はすっかり改装され、家具も一新されていた。故人の趣味を知る手がかりは殆ど残されていなかった。 唯一つを除いては・・・。
 子供たち。 中学生になる娘の早紀と小学生の息子の耕太は、清美を歓迎してくれた。耕太は新しいお母さんにすぐ懐いてくれた。早紀は・・・。
 思春期の娘は難しい。清美に母親として振る舞うことは許しても、決して「お母さん」とは呼んでくれなかった。せいぜいお姉さん停まりだった。それでも、清美は焦るまいと決めた。
 小夜子の趣味を知る唯一の手がかり。それは、台所の食器だった。食器だけは、耕治も思い至らなかったのか、小夜子が揃えた物をそのまま使っていた。上品な模様と色の皿や器が棚に並んでいる。清美は、それが何故かとても重荷に感じた。
 台所。
 女の場所。母親がいる所。
 そこに、小夜子が残っていた。
 
 食器を処分する方法のヒントをくれたのは、耕太だった。台所で騒いで、皿を一枚落として割ったのだ。
「危ないじゃないの、怪我したら、どうするの!」
 清美は心から子供を案じて怒鳴ったのだが、あとで割れた皿を片づける時に、気付いた。
 そうか、この方法があるんだ。
 それから、清美は時々皿や茶碗を落として割った。ぶつけて欠けさせた。欠けた食器は姑が嫌がるからと廃棄した。そして自分好みの新しい食器を少しずつ増やしていった。
 飛田家に入って10年たった。早紀が嫁いだ。白無垢姿の彼女が、清美の前で両手をついて挨拶した。
「有り難うございました、お母さん。父をよろしくお願いします。それから、主婦としていろいろなこと、これからもどんどん教えて下さい。」
 
 母と呼ばれるのに、10年かかった。
 
 清美は、最後に一枚だけ残った菓子皿に引き出物のケーキを一切れ載せて仏壇に供えた。
 この一枚だけは、大切に残しておこう。母であることを意識し続けるために、小夜子に居続けてもらうのだ。

2013年3月28日木曜日

色の随想

 バーントシェンナと言う名前の色がある。「燃える様なシエナ」と言う意味で、イタリアのシエナの街が黄赤褐色の壁の家だけで築かれていることから生まれた名前である。
 一つの街が一色に統一されているのを見るのは、ある種の感動を呼ぶ。それはその土地の色であり、文化の色でもある。地中海の少々乾燥した風土に、バーントシェンナはよく似合う。
 もし、これが緑一色だったら、例え歴史があったとしても、初めて見る人間はうんざりするのではないだろうか。赤茶けた風景に緑の街は似合わない。オアシスではないのだから。
 オアシスの家だって、緑色はしていない。
 オーベルジーヌもとてもロマンティックな響きだけど、要するに「茄子色」。だから、「エッグプラント」と表示されていたりもする。ずばり「ナス」と書かれていることもある。
 「白」は難しい。白、ホワイト、オフ、オフホワイト、蛍光晒、無蛍光晒、乳白色、象牙色、アイボリー・・・どれも微妙に異なる。
 一番難しいのは「黒」。黒とブラックは違うって、知ってた? 素人には解らないって?? それは、誤解と言うものだよ。
 並べて見れば、素人でも違いがはっきり解るのが、黒なんだね。同じ薬品を使っても、素材で全く違う黒が出る。同じ素材でも、気温が異なれば、違う色になる。乾かす温度も影響する。
 白に染めるのは簡単だけど、黒は難しいから、一回で仕事を終えなきゃいけない。でないと、まだらな黒が生まれてしまう。
 色を創るのは、誰でも出来るよ。でも、同じ色を創り続けるのは、プロの仕事なんだね。

2013年3月24日日曜日

町工場

運送屋に聞いた話。

 個人営業のFさんは、大手と契約していて、夜間や休日の配達を代行している。地域の住人とは顔なじみだ。

 ある時、ニット工場のYニットへの日配の仕事を請けた。Fさんは、配達先の名前を見て、「おやっ」と思ったそうだ。Yニットは数年前に不渡りを出して廃 業したはずだった。何かの間違いではないかと思ったが、伝票の送り先はYニットだったし、送り主は国内最大手のT紡績傘下の染工場だ。Fさんは取り敢えず 荷物を運んだ。

 Yニットは田んぼや畑がある町外れにぽつんと建っていた。錆びた門扉を開くと、Fさんの記憶にあるままの古ぼけた工場の建物から織機の音が聞こえてきた。

「なんだ、仕事してるんだ」

Fさんは工場の中に入った。明るい屋内で、老社長が一人で機械を動かして靴下を編んでいた。

「やあ、Fさん、久しぶり!元気だった?」
「はい、お陰様で。社長もお元気そうで・・・」

確か、この工場には3人の従業員がいたはずだったが、社長しかいなかった。Fさんの視線に気付いた社長が苦笑いした。

「実は、うち、潰れたんだよ。ただ、今回どうしてもここの機械の仕事でなきゃ駄目だってオーダーが来たんで、一人で動かしてるの。まぁ、これで3人に払えなかった最後の給料を出せそうなんだ。」

Fさんは社長と少しだけ世間話をして、受け取り伝票にサインをもらって帰った。

 Fさんが家に帰って間もなく、仕事をくれた大手から連絡が入った。

「Fさん、あれ、誤配だ。Sニットカンパニーに送る荷物だったらしい。」
「え?でも、Yニットの社長さん、疑いもせずに受け取りましたよ。」
「冗談言うなよ、Fさん。」
と相手は言った。

「Yニットの大将、去年死んでるんだよ。」



 Yニットの社長の息子、Sニットカンパニーの社長、それに発注したT紡績の営業と一緒に、Fさんはもう一度田んぼの中の工場に行った。
 錆びた門扉は、Fさんが開けたままだった。工場は既に電気を止められていたので中は暗く、埃だらけで蜘蛛の巣が張っていた。
 社長の息子が窓を開けて、やっと明るくなった。

「だって、私、Y社長と電話で話をしたんですよ。」

T紡績さんは泣きそうになっていた。彼の視線は埃だらけの電話機を見ていた。

「あなたは電話だけでしょう。僕は本人と喋ったんだ。」

Fさんは恐いとは感じなかった。ニコニコしていた人の好さそうなY社長の笑顔や声が生々しく記憶に残っていた。
 Sニットの社長は機械を見ていた。

「最近誰か、これ、動かした?」
「いいえ、僕は工場を継がなかったから、ここは全然触ってないです。親父が死んでから、来たこともない。」

と息子。

「そう?でも、これ、手入れされてるよ。」

S社長は機械を撫でた。

「表面は錆びているけど、状態、良さそうだ。まだ使えるな。」

Fさんが配達した荷物がそのまま床に置かれていた。

「Yさんは不景気を乗り越えられなかったが、いい仕事をする人だった。早めに廃業していれば、心労を重ねずに済んだだろうに。この仕事が好きだったんだな。最後まで頑張って、無理して、倒産して、体まで壊しちまった。」
「化けて出ることなんかないのに。」

と息子。

「従業員は3人ともちゃんと再就職出来たし、借金もなんとか返せるめどがついたのに。」

T紡績さんだけが、まだ怯えていて、

「やっぱり幽霊だったんですかぁ?」

と言った。

FさんはY社長手書きのサインが入った受け取り伝票を出してみんなに見せた。

「Y社長は仕事が好きだったんですよ。大きな会社で働いてる人にはわからないかも知れないけど、ここはYさんの城だったんだ。」

家業を継がなかった息子が沈黙すると、S社長が言った。

「Yさん、もし良かったら、ここ、貸してもらえないだろうか? うちの会社、なんとか順調にやってる。工場を少し広げたいんだが、騒音問題やらで今の場所 では増築出来ないんだ。この建物、少しだけ手を入れて、機械は調整したらまた使えるし、そんなに経費をかけずに済みそうだ。あんたにも家賃が入る。返済の 足しになるんじゃないかな?」

Fさんはトラックを運転しながら、いろいろな噂や出来事を見聞きする。だけど、Yニットで起こったことほど不思議な出来事はない。 

垂水廉売市場の思い出

母がお気に入りの八百屋があった。

おばちゃんと息子夫婦で商売していた。おじちゃんは、よく浮気したり二日酔いで寝ていた。仕事をする時は大量に買った客の家に商品を配達する仕事をしていた。
店を切り盛りしていたのは、当然おばちゃんで、客とお喋りしておまけを付けたり、値引きするのもおばちゃんの権限だった。
八百屋と言っても果物も売っていた。
野菜も、痛んでいるところとかあれば、おばちゃんが客の目の前で葉っぱをむしったり、奇麗なものと取り替えたりしてくれた。

あのお店、まだあるだろうか?

http://www.kobe-c.ed.jp/cdo-es/gakunen/17/3nen/3nen-2.htm

初鰹

小説「南国太平記」のテレビドラマ化されたものは、人物設定やその人の運命、物語の結末やらが変えられていて、暗く湿っぽくなって、あまり面白いものではなかった。
けれど、一カ所だけ、原作にはなくてドラマだけにあるシーンが印象に残っている。
主君の仇を討つために主人公の一家は脱藩して一家離散するのだが、明日はその旅立ちの日、と言う時に、母親が奮発して初鰹を買う。当時、初鰹は一尾一両 (約5万円)する高価な魚で、主人公のような下級武士が買える代物ではなかった。家族がそろって取る最後の夕食に母親は鰹を買った訳だ。鰹は、父と母の故 郷、薩摩の味だった。そして、その捌き方を娘(夏目雅子さん)に母親が教える。包丁の入れ方、内臓の取り方等。
 ぼーっと見ていたら、横で父が呟いた。
「母親が娘に教えてやれる最後の躾やなぁ・・・」

原作でもドラマでも、母親と娘は不幸な最期を遂げる。

2013年3月23日土曜日

長鎌

彼は土手に座っていた。黒いマントの様な丈の長い服を着て、フードで頭を隠していた。手だけが妙に白く、骨張っている。
「やぁ」と声をかけると、「やぁ」と返事をした。
「もう俺の番かい?」と不安を隠して」尋ねると、首を振った。
「いや、まだずっと先だ。」
「そうか」
ホッとした。横に並んで座った。
「本当は、○○家の親爺の番なんだがね」
と彼が言ったので、どきりとした。○○家は、朝から一家で海へ遊びに出かけていた。
「それは、ちょっと・・・」
「一家でレジャーの日に、って言いたいのかい?」
と彼はぶっきらぼうに言った。
「それは、こっちの台詞だよ。順番が当たる日に出かけるなんて。」
鎌の刃がキラキラ光った。
「これは、順番なんだ。おまえさんたちが生まれる前から、親の親の代から既に決まっていたんだ。変更は効かない。変えるとなったら、かなり面倒なことになる。だから、従ってもらいたいんだ。」
「だけど・・・」
風が吹いてきて、丈が伸びた草がざわざわと波打った。
彼は空を見上げた。
「お天道様が上がってしまう前にやってしまいたかったんだがな。」
「どうしても、やるのかい?」
「ああ、やってしまわないと、後が大変だ。」
彼はすくっと立ち上がって、鎌を振り上げた。
こちらも慌てて立ち上がり、鎌に当たらないように退いた。
「もう、行けよ。」
と彼は言った。それで、歩き始めると、
「○○には、ちゃんと報いてもらいからな。」
と彼は陰気な声で呟いた。
「順番があるんだよ、何事にも。」
「ああ・・・」
相づちを打つと、彼はフードを邪魔そうに取り払った。そして、黒い雨合羽を脱いで置いた。
彼はもう一度言った。
「これは、義務なんだ、土手の草刈りは・・・」

2013年3月20日水曜日

アイデア

「嬉しいわ、来てくれるなんて!」
「貴女が、落ち込んでいるって言うから、様子を見に来たのよ。でも、元気そうじゃない?」
「うん、実は、小説のアイデアが浮かばなくて、もう作家人生も終わりかと思ったら、生きてるのも嫌になって、死のうかな、なんて考えてたら、ふとアイデアが浮かんだのよ!」
「どんな? 私、いつも貴女の作品、必ず買うのよ。粗筋だけでも教えてくれない? 絶対に本は買うから。あ、私がお茶を入れてあげる。美味しいアーモンドのお茶を買ってきたのよ。」
「ありがとう。
あのね、筋は単純なんだけど・・・殺し屋が殺人を犯すところを、偶然通りかかったクルマの人たちが目撃してしまうの。目撃者は3人で、4人目は盲目の女 性。彼らはある秘密があって、警察に通報出来ないんだけど、そのうち、一人が何者かに殺されてしまう。殺し屋の仕業だと考えた彼らは身を守ろうとする。け れど、二人目も殺される。
盲目の女性のところに客が来るの。女性なので、盲目の女性は警戒を緩めるんだけど、会話するうちに、彼女が殺し屋じゃないか、と疑いを持ち始める。ちょっとした心理合戦ね。そこへ、3人目の目撃者が来て・・・」
「それで?」
「ふふふ・・・後は作品が完成してからのお楽しみ!」
「ケチね・・・あははは、じゃ、本が出るのを待ちましょう。ほら、お茶が入ったわよ。」
「ありがとう。あら、本当にアーモンドの良い香りがするのね。貴女は飲まないの?」
「私はカフェイン絶ちしているから、いいの。私こそ、ありがとう、って言わせてね。素敵なアイデアを聴かせてくれて・・・」

2013年3月17日日曜日

おかん

 アキラは高校を卒業すると、すぐにパーマをかけた。当時、若い男性のパーマは当たり前と言うか、あててないと大人の男じゃないみたいな風潮が高校生の男子の間であった。大人から見れば、「なんでわざわざ金掛けて髪の毛をチリチリにするんかな?」と言うものだったけど。
おかんは息子のパーマを当てた髪を見て、一言、
「一緒に買いもん(買い物)行くか?」
とだけ言った。
アキラは母親と出かけることに抵抗を感じなかったので、一緒に近所の商店街に出かけた。
母親は晩ご飯のおかずを買うだけの買い物だったが、アキラが幼い子供であるかの様に、「これ、食べる?」「これ、好きやろ?」と話しかけた。アキラは適当に頷いたり首を振ったりするだけで、特に喋ることはなかった。
魚屋に来た。アキラも何度もお遣いに来た顔なじみの店だ。そこで商品を眺めていると、店のおっちゃんが声をかけてきた。
「どないだ(どうです)、このサバ、活きがええで、お嬢さん!」
アキラはぽかんとしておっちゃんを見た。俺がわからないのか?
彼は母親を見た。母親が「うちの子やんか」と言ってくれるものと期待した。ところが、おかんは、こう言ったのだ。
「あかんで、おっちゃん、こんなハイカラな頭した子がサバなんか食べるかいな」
「せやな(そうだな)、今時の女の子は魚もよう触らんしな」
おっちゃん、ガハハ!と笑った。
買い物を済ませての帰り道、アキラはおかんに尋ねた。
「なんでボクや、て言わへんかったん?」
おかんはつんとして言った。
「言わんでも、おっちゃんはわかっとう(わかっている)」
その夜、アキラは一生懸命洗髪してパーマを落とそうとした。パーマは手強くて、アキラが商店街を帽子なしで歩けるようになるのに、半月はかかった。

スペア

連休の初日だと言うのに、歯が痛くなった。困った、歯科医は休みだ。
仕方がないので、自分で抜いて、スペアの歯を装着した。

階段で足を滑らせて、落ちた。右膝の下あたりが折れた。日曜日だ。救急医療当番の病院は、遠い町だ。運ばれる間の苦痛には耐えられないだろう、と思ったので、自分で膝から下を抜いて、スペアの脚を装着した。

左肩から手まで、痺れている。病院でレントゲンを撮ってもらったが、どこも悪くないと言われた。加齢による痛みなので、適当な運動とサプリで緩和せよと言う。
腹が立ったので、帰宅すると、自分で肩を抜いて、スペアの腕に付け替えた。

頭痛がする。割れるほど痛む訳ではないが、気持ちが悪い鈍痛が続く。
どうも、頭が悪いようだ。 えっと・・・スペアの頭は・・・。

2013年3月9日土曜日

包み紙 

包み紙を捨てられないで、到来物の紙は、出来るだけ破らないように広げ、皺を伸ばして丁寧にたたみ、棚にしまい込む。それがどんどん溜まって、棚がいっぱいになって、隣の棚にも進出して来た。
綺麗な花柄の紙や、上品なデパートの包装紙、楽しいケーキ屋さんのラッピングペーパー。それが、宝物だったのだ。
 彼は、祖母がいなくなった家の中を見回した。金目の物はせいぜい仏壇の下にしまい込まれた高価な仏具程度で、そんなもの、古道具屋しか引き取ってくれないだろう。
「包み紙なんか溜めないで、お金を貯めてくれれば良かったのに。」
彼はため息をついた。
家を解体するなら、壁や柱ごと潰していまいましい紙を捨て去るのだが、まだ建物は綺麗だし、交通の便の良い場所にあるので、貸して欲しいと言う人がいて、解体費を使うよりは、家賃をもらう方がましなので、掃除をしなければならない。
 祖母はこぎれいに住まいしていたので、家は綺麗だった。台所も寝室も片づいていたし、仏間もすっきりしていたし、浴室はちゃんと換気されていた。トイレも清潔だ。不動産業を営む友人の鑑定では、中古物件として良質で、月に7万円の家賃でも安い方だと言う。
 家具や食器は既に運び出し、後は作りつけの棚にぎっしり押し込まれた包み紙の始末を残すのみとなっていた。
「どうすんの、これ?」
手伝いの友達が呆れていた。
「新聞紙や段ボールならリサイクルで引き取ってもらえるけど、包装紙だろ? 捨てるしかないんじゃない?」
「焼いちゃえば?」
「駄目だよ、ダイオキシンとかなんとかで、苦情がくるよ。」
「面倒だね。取りあえず、外に出そうよ。」
三人で紙を出して紐で縛る。それを10数回繰り返した。
「すごい執念だね、ここまで集めるなんて。」
「うん、我が祖母ちゃんながら、鬼気迫るものを感じるよ。」
包装紙の山が18個もできた。
塗装工をしている友人が、ガレージの隅に置かせてくれると言うので、預けた。

 その夜、塗装工の友人から電話がかかってきた。大変なものを見つけたので大至急来い、と言う。昼間の労働でくたくただったが、彼は出かけた。
友人はガレージのシャッターを閉じてから、見つけたものを見せてくれた。
それは古い聖徳太子の一万円札の束だった。
「なに、これ?」
「おまえの祖母ちゃんの遺産だよ。」
「え?!」
友人の説明によると、彼の妹がちょっと物を包む物を探して、預かり物の包装紙の束をめくっていたら、一枚のお札が出てきた。もしやと思い、その束をほどくと、どの紙にも一枚ずつお札がはさんであった。
「これ、一束で50万あった。全部で18個だよな?」
彼は友人の言葉を震えながら聞いていた。
祖母の遺産は、紙だった。包装紙とその間のお札。
「なぁ、一割あげるから、全部ほどくの、手伝ってくれないか?」
「一割ももらっちゃ、悪いよ。いくらになると思うんだ? もし全部にお金が入っていたら、一千万近くになるぜ。」
「だけど、落とし物の謝礼くらいはしなきゃ・・・」
友人はほがらかに笑った。
「それは、取らぬ狸の皮算用。先にお金を探そう。それから決めようや。大した労働じゃなかったら、飯を一回おごってくれりゃいいさ。」
一晩かかって、967万円が出てきた。彼は友人に、50万円の謝礼を申し入れ、友人もそれを快く受けた。
「だけど、おまえ、俺がおまえに電話する前にいくらかポッポに入れたなんて、疑わなかったの?」
「入れたの?」
「まさか!」
「だろ? おまえを信用してるよ。」
彼は、一枚の紙を自分のポケットに入れた。
それは、10番目の束の中で見つけた、祖母の手書きの覚え書きだった。変色して黄色くなった紙に茶色になったインクの文字が、こう言っていた。


これを見つける人が私の相続人以外の人であり、その人が私の相続人に正直にお金を渡してくれたなら、私は子孫に信頼と言うものを相続させることが出来ると思うのです。