2015年10月28日水曜日

渋いカラス

渋いカラス

先日、駐車場に車を駐めて、車内で時間調整をしていたら、隣の建物の平屋根にカラスが飛来しました。

カラスは真っ赤に熟した柿の実をくわえていました。

柿の実を食べようとして、屋根の上を行ったり来たり、でも場所が気に入らなかったらしく、今度は横の斜めになった屋根の小屋へ移動しました。

どうして丸い実を斜めの屋根で?
転がるかも知れないのに?

と心配していたのですが、カラスはそこが気に入ったらしく、柿をつつきました。

私はそこではたと気が付きました。

熟した柿からは汁が流れ出ます。
カラスはその汁で足を濡らしたくなかったのです。

だから斜めの屋根を選んだのです!

頭がいいなぁ、流石にカラスだなぁ! と感心していたら、カラスは柿を2,3回つついた後、それを放置して飛び去りました。


渋かったんやね・・・

2015年6月18日木曜日

ちどりや


多分、「千鳥屋」と漢字で書いていたのだと思いますが、私の記憶の中では漢字の看板はないのです。
垂水区の県道、垂水東口から名谷に行くバス道の山側に、石垣やコンクリートの壁が続くところがあります。
「クラブ前」と「千鳥が丘下」のバス停の間の区間です。
この壁と言うか、元は崖だったのかも知れませんが、そこにガレージみたいに穴を開けた様な店舗がありました。
駄菓子、パン、アイスクリーム などの店、と私は認識していましたが、今思い出してみれば魚の干物や豆腐やちょっとした調味料なども置いていたみたいです。
狭い店で、おばちゃんが一人で店番をしていました。
客の多くは子供だったと思いますが、駄菓子屋ではありませんでした。
我が家はこの店で食パンを買い、子供がお手伝いをするとご褒美にアイスを買ってもらえる店でした。
夜はシャッターを下ろしていたと思います。
店の前は県道で年々交通量が増えて危険になり、小学校では「歩道のない道は通ってはいけません」と指導していましたから、「ちどりや」にとって辛い時代になっていったことでしょう。


小学校の3年生の頃でしたか、福田側の東側に「川原センター」と言う商店街のミニ版が出来ました。
垂水の廉売市場よりは貧相な、でも店舗が数軒並んだ、住宅街では画期的な場所です。
「ちどりや」は、それを機会に閉店しました。
「これからは川原センターでお買い物して下さい」と言う意味の貼り紙がしてあったそうです。
千鳥が丘や福田町から川原センターは遠いので、私達は大いに不満でしたが、店の決心は固かったのです。
もしかすると、おばちゃんはもうお歳で、新しい店に対抗する気力がなかったのかも知れません。

「ちどりや」は、私が初めてお金を握りしめて自分でお買い物をしたお店でした。

2015年4月15日水曜日

震災の思い出 9

震災の思い出 9

垂水駅を出て国道2号線まで行くと、4輪はいなくて2輪がたくさん走っていました。
ヘルメットを被らない人や2人乗りなど、普段は違反になるような乗り方もあの時は目をつぶってもらったのかな? 
警察はそれどころではなかったでしょうから。
まだ東の方では火災が発生していましたし、余震も続いていました。
私もこの日数回、足許からドンッと突き上げる様な余震を体験し、その度に命が縮む思いでした。

親友N子の家は国道と海の間の細長い住宅地にありました。
海岸通りとか宮本町とか言う辺りです。
路地を通って彼女の家に行くと(実は隣の家に間違えて入りそうになりました)、彼女の家の中は物が散乱して、さながらゴミ屋敷の様相でした。
戸棚や食器棚の中の物が全部飛び出して散乱し、彼女も家族も心が折れた状態で後片付けをする気力を失い、コタツの中にもぐる様にして暖を取っていました。
そこへ私が訪ねて行くと、N子のお母さんが涙を流して喜んでくれました。
私は何も出来なかったのに、顔を見ただけで嬉しかった、と後日聞きました。
まだ水道もガスも途絶えたままで、電力だけが復旧していたので、トースターでパンを焼
いて食べているとのこと。
私が焼いて持参した蒸しパンが、「久し振りに食べる甘い食べ物」と感激されました。

家の中に座る場所もなかったので、N子と二人、話をしながら駅へと歩きました。
ゆっくり歩きましたが1時間もかかる距離ではありません。
ところが駅に戻ると、往路に見たアンデルセンの食パンの壁は既に消え失せ、行列も消えていました。
私がパンの壁がもうなくなっている、と言うと、N子が「ああ、パンが来ていたのか、ではまた直ぐに入荷するだろうから、うちでも買っておこう。」と言いました。

実はこの後、私の記憶では喫茶店に入ったのですが、それがこの日だったのか、次の訪問時だったのか、記憶が定かではありません。
しかし、震災からそんなに日がたっていなかったのに喫茶店が営業していたことに大変驚いた覚えがあります。
場所はJR垂水駅の東口にあったお店で、電車は止まっているのに客が大勢入っていました。
N子と私は珈琲とチーズケーキをいただきました。
N子は地元の子でしたから、垂水の商店街のほとんどの店と知り合いで、喫茶店の人に
「店を開けられて良かったね」と声をかけていました。

震災の思い出 8

震災の思い出 8

実家が無事だったので、私は垂水中学入学以来の親友N子の家の様子を見に行くことにしました。
それを母に告げると、「ああ、早く行ってあげなさい。」と言ってくれました。
N子の家は海のそばの宮本町にありました。

私は再び山陽バスに乗って、下へ行きました。
街はますます土埃で茶色に霞んで見え、道路は4輪がいなくなり、2輪ばかりが走り回っていました。
バスの終点は、当時、寿司の増田屋の前だったのですが、近くの石垣が崩落したとかで、手前の神田町で降ろされました。

垂水の街は賑やかで、電車が止まっているにもかかわらず人が大勢いました。
多分、名谷や舞子あたりからバスが来るからでしょう。
宮本町へは、山電垂水駅とJR垂水駅西口のコンコースを抜けて2国を横断します。
そのコンコースに行くと、ちょっと異様な光景が目に入りました。


山電とJRの境目は階段があったのですが、その階段の上に当時、アンデルセンと言う製パン会社が販売専門の店舗を置いていました。
いつもは色とりどりの菓子パンがガラスの壁越しに見えたのですが、その時は全部食パンで壁が埋め尽くされ、正に小麦色の壁がコンコースの中央にそびえ立っていました。
店の入り口にはパンを買い求める人の行列が出来ていました。

後日、山口に住んでいる妹から聞いたのですが、アンデルセンの創業者は広島の人で原爆体験があり、会社を興した時に「戦争だろうと天災だろうと、大きな災 害が起これば食べる物に困る人が出てくる。煮炊きする状況ではないだろうから米のご飯は無理だ。袋を破ってすぐ食べることが出来るパンを被災者に提供出来 るように、工場にラインを二つ造り、災害発生と同時にラインを全て食パン専用に切り替える」と計画したそうです。
そして実際に兵庫県で甚大な被害が出る地震が発生したと聞くと、同社は直ちに生産ラインを食パン1本に切り替えたそうです。

交通がまだ全面復旧していない時に広島からパンを運んで来たのですね。

2015年3月13日金曜日

震災の思い出 7

震災の思い出 7

実は実家のそばの道路状況がよくわからなかったので、名谷のショッピングセンターの駐車場に車を置いてバスに乗りました。
垂水区では山陽バスが運行していました。
乗客は多くて、ほとんどの人がリュックサックを背負い、女性でスカート姿の人はいませんでした。
車窓から見える垂水の町は土埃で茶色に見えました。
自家用車は名谷周辺では走っていましたが、下(海に近い地区)へ近づくにつれて原付バイクが増えていきました。

実家は前述通り土台が傾いていましたが、母と寝たきりの祖父、認知症で何が起こっているのか理解出来ていない祖母の3人は無事でした。
父はこの時、単身赴任先の大阪府忠岡で神戸に帰る手段がつかずに職場にいました。母とは電話でなんとか連絡がついたのですが、大阪から垂水まで鉄道が使えず、代替バスがいつ運行開始したのか覚えていませんが、どうやって自宅へ帰れば良いのかわからなかったのです。


停電は解消され、上水道は断水していましたが、実家は何故か水が出ていました。
地理的な幸運で水道管の水が低い地区に流れ、祖父の家の風呂場の蛇口からポタポタ出ていたのです。
実家のある場所では井戸を持っている家が1軒だけあり、自治会長が井戸を使わせてくれるよう、その家に交渉しました。その家はケチで有名でしたが、時が時だけに承諾しました。
しかし母が「うちのお祖父さんのところで水が出ています」と告げると、近所の人たちがポリタンクを持って水汲みに来ました。
ポリタンク1箇1時間ほどかかったらしいのですが、それでもケチなお宅に頭下げるよりは、とやって来る人がいたのですね。
ガスは、不幸中の幸いと言うか、実家がある地区は都市ガスが来ておらず、全戸がプロパンを使っていました。地理的な条件と複雑な地権者の問題で神戸市が都市ガスを引けずに放置していたのです。
水洗トイレも各戸浄化槽設置の地区でしたから下水が地震でやられて使えない市街地に比べると問題はあまりなかったのです。

不便な地区が、この時ばかりは随分とその不便さ故に救われていました。

震災の思い出 6

震災の思い出 6

田井南の交差点で左折して県道65号線を走ります。
この頃には渋滞が始まっていてスピードが落ちました。
明石ゴルフ倶楽部の中を通る道ですが、当時はまだ狭くて場所によっては離合が困難な幅もありました。
ゴルフ倶楽部のゲートが開いていました。
門扉のそばに立て看板が置いてありました。
「温かいお食事あります。
お風呂も入れます。
どうぞお気軽にご利用下さい。」
そんな感じのことが書いてありました。
なんだかじーんときました。

65号線は現在52号線と立体交差になっていますが、当時は一旦52号線に入って少し南下してから福谷で左折し、もう一度65号線単独になります。
うねうねと蛇行した細い県道を自動車の列が連なっていました。

私の前にいたのは小型のトラックで荷台に木製の細長い木箱をいくつか立てて積んでいました。
ロッカーの様にも見えたのですが、ある時点で突然それが何なのか判明しました。
真新しい棺でした。
犠牲者の数が増えるにつれて棺の数が足りなくなったのでしょう。
どこかの遺体安置所に運んで行くところだったのです。
私はずっと棺の後をついて走っていたのです。

アスファルトには地割れが続いていました。
ぱっくり開いたままの箇所があり、大きくはないのですが渋滞で割れ目の上に停車しなければならないのは気持ちが悪いことで、みんな地割れに停まりそうになると前の車にぎりぎり寄せました。

自宅から実家まで、当時の道路事情では片道2時間だったのですが、その日は3時間かかりました。

2015年2月20日金曜日

震災の思い出 5

  • 震災の思い出 5

    地震があった週の土曜日に私は神戸に行きました。
    実家の母が欲しがっていた飲料水用のポリタンクが店頭で売り切れていて買えず、仕方なく大型の麦茶を入れるボトルを買いました。
    蒸しパンを2箇作り、夫には仕事を早退して行くことを告げましたが、舅たちには伝えるのを忘れました。
    メディアは救援活動の妨げになるので被災地に入らないように、と呼びかけていましたが、被災地に親族がいる人々には無視されました。
    救援活動中のプレートを提示したトラックなどに混ざって一般車両も多く南を目指して175号線を走っていました。
    西脇市、加東市、小野市あたりは普段と変わらぬ光景でした。
    でも三木市に入ると様子が変わってきました。
    屋根にブルーシートが掛かり、路面に地割れが出来ていました。
    175号線の三木バイパスでは橋の付け根に段差が生じていました。
    車高の低い車はその段差を越えられず、引き返していました。
    私の軽自動車はなんとかそれを越えました。
    三木ランプはどこかが崩れたのか、通行禁止になっていました。
    神戸市との市境辺りだったでしょうか、縞模様のバリケードが置かれ、「これより被災地です。救援活動の車輌以外の進入はご遠慮下さい」と言う意味のプレートが置かれていました。
    まるで神戸が世間から隔離されているような言いぐさでした。
    でも南を目指している車は、そんな標識に従ったりしません。
    誰かがバリケードに隙間を作っていて、そこからみんなどんどん入って行きました。

2015年2月9日月曜日

震災の思い出 4

震災の思い出 4

JR加古川線は普段はガラガラで利用者の少ないローカル線です。
でも震災で東海道本線と山陽本線、私鉄各社が不通になったために、明石以西の人が大阪方面に行くのに播但線や加古川線で一旦京都府の福知山方面へ行き、そこから大阪へ行くと言う手段が使われました。

「震災の時だけやなぁ、加古川線が満員になったんは」

と今でも語りぐさになっています。
自動車も神戸を通れないので丹波を通って京都から大阪・奈良方面へ抜けなければなりませんでした。
我が社の運転手は毎日奈良へ配達に行きますが、「あの時は過労で死ぬかと思った」と言っていました。

夜になると一般車両は通行止めの中国自動車道を遠くから応援の車輌が走ってくるのが見えました。
品川ナンバーのパトカーや救急車が赤い廻転灯を点滅させながら何台も何台も滝野社ICを降りて来ました。
それを見たお年寄りが「有り難いねぇ、兵庫のために全国から助けに来てくれる」と呟いて手を合わせていました。

2015年2月8日日曜日

震災の思い出 3

震災の思い出 3

神戸に行く前に震災直後の西脇市のことを書きます。
我が家は揺れを感じただけでしたが、職場の人の家では屋根瓦が落ちたり壁に亀裂が入ったりと被害が出ました。
国道175号線はアスファルトに亀裂が入りました。
後に豊岡、村岡町などの但馬に行った時も路面に亀裂が入っていたり屋根にブルーシートが掛けてあったりしたので、神戸から遠く離れてなおあの激震は伝わっていたのだとわかりました。

職場の人の中には親族を亡くした人が何人かいました。
それから冗談みたいに聞こえますが、テレビで神戸の街が崩壊しているのを見てショックで亡くなった方もいました。

地震の影響は翌日から顕著に出て来ました。まず、新聞が来ません。
神戸新聞が薄っぺらな1枚だけの新聞を配達した時は涙が出ました。
雑誌も来ません。私はTIMEを当時購読していましたが、「救援の妨げにならないよう、兵庫県の読者の皆様には一月休刊することをお知らせします」と通知 が来ました。ですから、あの時TIMEの表紙になった瓦礫の中でうずくまる女性の写真、私はリアルでは見られませんでした。
ホームセンターやスーパーからポリタンクが消えました。
神戸や阪神間に親戚のある住民がこぞって買い求めたからです。
パン屋では行列が出来ました。
西脇の住民だけではなく、神戸や三木などから食糧を求めて買い出しに来ていたのです。
私がパン屋で並んでいると、誰かが「明日には小麦粉も入ってこなくなるんじゃないか」と言いだし、パン屋の主人が「アホなことを言うな! 丹波方面から輸送出来るやないか。みんなの不安を煽るようなことは言うたらあかん!」とたしなめました。
自治体や婦人会は毛布や衣類の提供を呼びかけ、消防団は瓦礫撤去と救出の手伝いに神戸へ出かけて行きました。
 
空では毎日ヘリコプターが飛んでいました。
初めは消防のヘリかマスコミの取材ヘリか、それとも自衛隊の救助隊か、と思っていたのですが、そのうち「あれは神戸近辺の火葬場がいっぱいなので地方へ遺体を運んでいるんや」と言う噂が流れました。

毎日いつもと同じ生活をしていても非日常的でした。

震災の思い出 2

震災の思い出 2

母はすぐには電話に出ませんでした。
でも呼び出し音が鳴っているし。
母が電話に出たのは半時間後の7時前でした。
実は箪笥の上に置いてあった棚が蒲団の上に落ちて下敷きになっていたのです。
幸い蒲団が分厚かったのでケガはなく、やっと這い出すと台所やリビングの物が床に散乱して電話までが遠かったのだそうです。
停電は短かったと言っていました。
垂水はなんとか被害が軽く済んだみたいでした。

実家の被害は、二階にあった私が使っていた本棚が揺れに共鳴してしまいバラバラに崩壊したこと、食器が割れたこと、両親が結婚した時に父の友人一同が贈っ てくれた振り子時計が落ちてバラバラに壊れたこと、そして家の土台が少し東側へ傾いて、トイレのタイル張りの床にヒビが入り、玄関のコンクリートのポーチ が割れたこと・・・


家は今も少し傾いていて、ボールを置くと東側へ転がって行きます。
しかし父は「○○ハウスで家を建てた時は、プレハブの安い家しか建てられなくて悔しかったが、今思えば基礎が深くてこの程度で済んだ。」と言っていました。

私は振り子時計が潰れてしまったことが残念でした。
ゼンマイ式で毎日家族の誰かがネジを巻くのが仕事でした。
生まれた時から聞いていたボーンボーンと言う鐘の音は永久に聞こえなくなりました。
それは懐かしい神戸の姿が消えてしまったのと同じに。

2015年2月7日土曜日

震災の思い出 1

震災の思い出 1

あの揺れが西脇市まで到達した時、私は台所で朝食の準備とお弁当作りをしていました。
経験したことのない大きな揺れが長く続き、恐ろしかったです。
咄嗟にガスの火を止めました。
愛犬が、よく吠える犬だったのですが、あの時は声を出せないほど怯えて駆け寄って来ました。
家族もみんな起き出して、家の中に被害がないことを確認しました。
夫がテレビを点けました。
最初は「東海地方で・・・」などと報道していました。
やがて近畿地方の震度が地図で表示されると、夫が呟きました。
「神戸だけ、なんで震度が出てへんのや?」
そして彼は私を振り返って言いました。
「神戸のお母さんに電話したれ! 早く!!」