2015年2月20日金曜日

震災の思い出 5

  • 震災の思い出 5

    地震があった週の土曜日に私は神戸に行きました。
    実家の母が欲しがっていた飲料水用のポリタンクが店頭で売り切れていて買えず、仕方なく大型の麦茶を入れるボトルを買いました。
    蒸しパンを2箇作り、夫には仕事を早退して行くことを告げましたが、舅たちには伝えるのを忘れました。
    メディアは救援活動の妨げになるので被災地に入らないように、と呼びかけていましたが、被災地に親族がいる人々には無視されました。
    救援活動中のプレートを提示したトラックなどに混ざって一般車両も多く南を目指して175号線を走っていました。
    西脇市、加東市、小野市あたりは普段と変わらぬ光景でした。
    でも三木市に入ると様子が変わってきました。
    屋根にブルーシートが掛かり、路面に地割れが出来ていました。
    175号線の三木バイパスでは橋の付け根に段差が生じていました。
    車高の低い車はその段差を越えられず、引き返していました。
    私の軽自動車はなんとかそれを越えました。
    三木ランプはどこかが崩れたのか、通行禁止になっていました。
    神戸市との市境辺りだったでしょうか、縞模様のバリケードが置かれ、「これより被災地です。救援活動の車輌以外の進入はご遠慮下さい」と言う意味のプレートが置かれていました。
    まるで神戸が世間から隔離されているような言いぐさでした。
    でも南を目指している車は、そんな標識に従ったりしません。
    誰かがバリケードに隙間を作っていて、そこからみんなどんどん入って行きました。

2015年2月9日月曜日

震災の思い出 4

震災の思い出 4

JR加古川線は普段はガラガラで利用者の少ないローカル線です。
でも震災で東海道本線と山陽本線、私鉄各社が不通になったために、明石以西の人が大阪方面に行くのに播但線や加古川線で一旦京都府の福知山方面へ行き、そこから大阪へ行くと言う手段が使われました。

「震災の時だけやなぁ、加古川線が満員になったんは」

と今でも語りぐさになっています。
自動車も神戸を通れないので丹波を通って京都から大阪・奈良方面へ抜けなければなりませんでした。
我が社の運転手は毎日奈良へ配達に行きますが、「あの時は過労で死ぬかと思った」と言っていました。

夜になると一般車両は通行止めの中国自動車道を遠くから応援の車輌が走ってくるのが見えました。
品川ナンバーのパトカーや救急車が赤い廻転灯を点滅させながら何台も何台も滝野社ICを降りて来ました。
それを見たお年寄りが「有り難いねぇ、兵庫のために全国から助けに来てくれる」と呟いて手を合わせていました。

2015年2月8日日曜日

震災の思い出 3

震災の思い出 3

神戸に行く前に震災直後の西脇市のことを書きます。
我が家は揺れを感じただけでしたが、職場の人の家では屋根瓦が落ちたり壁に亀裂が入ったりと被害が出ました。
国道175号線はアスファルトに亀裂が入りました。
後に豊岡、村岡町などの但馬に行った時も路面に亀裂が入っていたり屋根にブルーシートが掛けてあったりしたので、神戸から遠く離れてなおあの激震は伝わっていたのだとわかりました。

職場の人の中には親族を亡くした人が何人かいました。
それから冗談みたいに聞こえますが、テレビで神戸の街が崩壊しているのを見てショックで亡くなった方もいました。

地震の影響は翌日から顕著に出て来ました。まず、新聞が来ません。
神戸新聞が薄っぺらな1枚だけの新聞を配達した時は涙が出ました。
雑誌も来ません。私はTIMEを当時購読していましたが、「救援の妨げにならないよう、兵庫県の読者の皆様には一月休刊することをお知らせします」と通知 が来ました。ですから、あの時TIMEの表紙になった瓦礫の中でうずくまる女性の写真、私はリアルでは見られませんでした。
ホームセンターやスーパーからポリタンクが消えました。
神戸や阪神間に親戚のある住民がこぞって買い求めたからです。
パン屋では行列が出来ました。
西脇の住民だけではなく、神戸や三木などから食糧を求めて買い出しに来ていたのです。
私がパン屋で並んでいると、誰かが「明日には小麦粉も入ってこなくなるんじゃないか」と言いだし、パン屋の主人が「アホなことを言うな! 丹波方面から輸送出来るやないか。みんなの不安を煽るようなことは言うたらあかん!」とたしなめました。
自治体や婦人会は毛布や衣類の提供を呼びかけ、消防団は瓦礫撤去と救出の手伝いに神戸へ出かけて行きました。
 
空では毎日ヘリコプターが飛んでいました。
初めは消防のヘリかマスコミの取材ヘリか、それとも自衛隊の救助隊か、と思っていたのですが、そのうち「あれは神戸近辺の火葬場がいっぱいなので地方へ遺体を運んでいるんや」と言う噂が流れました。

毎日いつもと同じ生活をしていても非日常的でした。

震災の思い出 2

震災の思い出 2

母はすぐには電話に出ませんでした。
でも呼び出し音が鳴っているし。
母が電話に出たのは半時間後の7時前でした。
実は箪笥の上に置いてあった棚が蒲団の上に落ちて下敷きになっていたのです。
幸い蒲団が分厚かったのでケガはなく、やっと這い出すと台所やリビングの物が床に散乱して電話までが遠かったのだそうです。
停電は短かったと言っていました。
垂水はなんとか被害が軽く済んだみたいでした。

実家の被害は、二階にあった私が使っていた本棚が揺れに共鳴してしまいバラバラに崩壊したこと、食器が割れたこと、両親が結婚した時に父の友人一同が贈っ てくれた振り子時計が落ちてバラバラに壊れたこと、そして家の土台が少し東側へ傾いて、トイレのタイル張りの床にヒビが入り、玄関のコンクリートのポーチ が割れたこと・・・


家は今も少し傾いていて、ボールを置くと東側へ転がって行きます。
しかし父は「○○ハウスで家を建てた時は、プレハブの安い家しか建てられなくて悔しかったが、今思えば基礎が深くてこの程度で済んだ。」と言っていました。

私は振り子時計が潰れてしまったことが残念でした。
ゼンマイ式で毎日家族の誰かがネジを巻くのが仕事でした。
生まれた時から聞いていたボーンボーンと言う鐘の音は永久に聞こえなくなりました。
それは懐かしい神戸の姿が消えてしまったのと同じに。

2015年2月7日土曜日

震災の思い出 1

震災の思い出 1

あの揺れが西脇市まで到達した時、私は台所で朝食の準備とお弁当作りをしていました。
経験したことのない大きな揺れが長く続き、恐ろしかったです。
咄嗟にガスの火を止めました。
愛犬が、よく吠える犬だったのですが、あの時は声を出せないほど怯えて駆け寄って来ました。
家族もみんな起き出して、家の中に被害がないことを確認しました。
夫がテレビを点けました。
最初は「東海地方で・・・」などと報道していました。
やがて近畿地方の震度が地図で表示されると、夫が呟きました。
「神戸だけ、なんで震度が出てへんのや?」
そして彼は私を振り返って言いました。
「神戸のお母さんに電話したれ! 早く!!」