2012年8月29日水曜日

礼状

ヒサコは鍵を開けてドアを開いた。プンと埃の匂いと湿気。 黴は生えていないだろうと思うが、真っ先に浴室とトイレなどの水回りを確認。
ヒロシの上着がだらしなくソファの背もたれにかけてある。
「ヒロミさんも、ハンガーに掛けるぐらいのこと、したらいいのに・・・」
しかし手を出さずに、掃除を始める。
持って来た化学雑巾で拭き掃除。家の電機や水は使わない。電気代や水道代に余計な加算を出せば、気づかれる。
二、三週間に一度、掃除に来る。嫁のヒロミが掃除しないから、こっそりしておくのだ。
ばれないように。見られないように。水筒とお弁当も持参。決して痕跡は残さない。
必ず晴れた日に来て、照明は使わない。
掃除が終わると窓を開放して二階の和室で少し昼寝をする。ヒサコのささやかな楽しみ。
そして夕方になる前、孫たちが学校から帰る時刻より先にドアに施錠して帰宅する。
家を出る前に仏壇の前に置かれていた封筒を取って、ポケットに入れる。これは忘れない。
そして、自分のポケットに家から持って来た封筒を代わりに置いておくのだ。これも忘れない。


「まだそんなこと、してるの?」
親友のアサコが呆れると言うより心配する口調で言った。
「いい加減になさいよ。けりをつけるのよ。いつまでも引きずってちゃ、進歩はないわよ。」
「いいの。私は楽しいから。」
ヒサコは五月蠅そうにあしらうだけだった。
「だけど、あれからもう2年よ。」
アサコは意味もなくカレンダーを見た。
「もうすぐ、3回忌なのよ・・・」

アサコが帰ると、ヒサコは茶碗を片付けて、机の前に座った。
ヒロシの家から持って来た封筒を開けて、手紙を出した。

お義母様
いつもお掃除ありがとうございます。毎日綺麗な家に帰るのが楽しみです。ユミもトオルも私の掃除よりおばあちゃまのお掃除の方が上手だと褒めています。
また一緒にお食事でもしてみたいですね。
お弁当でなく・・・

ヒサコは新しい便箋を出して、返事を書く。

ヒロミさん
もうすぐお彼岸です。
今年は私の家で法要をします。お線香の煙が上がったら、みんなで降りていらっしゃい。
あなたの好きな黄粉餅や、ユミの好きな桜餅、トオルの為の牡丹餅を作っておきます。
ヒロシのビールも開けておきますよ。
楽しみに待っていますよ。

2012年8月14日火曜日

お盆

「どこ行っても閉まっててさ。」

「行くところがないね。」

「うん、暇だなぁ。」

「遊園地にでも行く?」

「何しに?」

「お化け屋敷さ。」

「あんな子供騙し・・・」

「いいじゃん、送り火までバイト出来るからさ。」

「幽霊にバイト料払うヤツなんていねーよ!」

「ちぇっ・・・折角帰って来ても子孫が絶えてて帰る家がないなんて。」

「恨めしや~」

2012年8月11日土曜日

夕涼み

日吉さんが縁側で浴衣掛けで団扇を使っていると、和菓子屋の若旦那が庭先に現れた。
「こんばんは」
と笑顔で挨拶する。いつも売り物のお菓子みたいに甘い笑顔の若者だ。
日吉さんも笑顔で返した。
「やぁ。こんばんは、はまだ早いよ、こんなに明るいのだもの。」
「でも、5時過ぎてますよ。」
若旦那は、いいよと言われる前に日吉さんの隣に座った。
「日吉さん、奥さん、もう帰ってきた?」
「さてね」
日吉さんは懐からタバコを出した。若旦那に薦めたが、菓子職人は手を振って断った。だから日吉さんも一本くわえたけれど、火は点けなかった。
「もう帰って来る頃だけどね。どこをうろうろしてるんだか。」
「きっと、知り合いに出会って、立ち話でもされてるんでしょう。そこの角まで帰って来てたりしてね。」
「馬の用意は終わったよ。案外簡単だった。船も昨日手配した。」
「うちの蓮や菊をたんと持たせて差し上げなさいよ。奥さん、好きだったから。」
「甘い物には目がないヤツだったからな。」
垣根に今朝の朝顔がしぼんでちりちりになって下がっていた。明日の朝は別の花が咲くのだ。世代交代が確実に行われている。
背が高いヒマワリはまだ太陽の下で頑張っているが、日が傾いてくるとその陰が却って空元気に見える。
「奥さんは・・・」
若旦那が何か言いかけた時、風が二人の間を吹き抜けた。風鈴がチリリンと鳴り、若旦那は思わず風が抜けて行った座敷の方を見た。
仏壇の前の廻り灯籠の電飾の光が風で揺れた様に見えた。
「奥さん、お帰りになられましたよ。」
若旦那が囁くと、日吉さんはタバコをくわえたまま、ニコッと笑った。
「折角お戻りになったんだから、お邪魔しちゃいけませんな。」
若旦那は縁側から下りた。
「水饅頭を作りましたから、後でお持ちしましょう。」
「いつもすみませんね。」
日吉さんが立ち上がると、若旦那は、それじゃ、と言って頭を下げ、座敷の方にも軽く会釈して庭から出て行った。
日吉さんはしぼんだ朝顔を見ながら呟いた。
「おまえが言った通り、いい男だな。祐子はあの家に嫁ぐことになったよ。」
庭の草木がサワサワと葉を鳴らした。
西の空が見事な夕焼けで透明な赤に染まっていた。

車窓

久し振りに電車に乗った。
真昼の電車。
ガラガラに空いている。
通勤用の電車なので、座席は車両の両側に長椅子が付いているタイプ。
その車両には、数人しか乗客がいなかった。
私は読みかけの本を出して開いた。
子供の声がした。
「わぁ! 海だ! でっけーー!」
顔を上げると、向かいの椅子に小さい男の子がいて、こちらに背中を向けて窓の外を眺めている。
窓の外には大阪湾が広がっている。西は明石海峡。
そんなに綺麗な海域ではないが、電車から見える海は真っ青で美しい。
ちょうど電車は断崖の上の、その私鉄で最も眺望が美しいT駅にさしかかろうとしていた。このT駅は、有名ではないが、関西の鉄道マニアの間では隠れた名所なのだ。天気が良ければ西は明石海峡大橋から東は天保山の方角までが見渡せる。
「わぁ、海だ、広いな!」
子供は叫び、私を振り返って笑いかけてきた。
私も微笑みを返し、本に戻った。
電車がT駅に入り、停車した。
軽い揺れで、私は再び顔を上げた。駅から見える海を見る、いつもの自然な行動だった。
子供はいなかった。
どこにも。
そして、私は気づいた。
子供が振り返った時、体はそのままで、首から上だけが私の方を振り返ったことを。