2013年8月30日金曜日

赤竜 1 その6

 夜が明けた。オーリーは勤務明けにモーテルに寄ってみた。ドーナツと紙パックのミルク持参だ。女性 たちを送っていった制服警官に教えられた部屋のドアベルを押すと、窓のブラインドが動いて、誰かが指で作った隙間から外を覗いた。栗色の指だ。彼は紙袋を 振って見せた。ドアが開いた。イヴェイン・カッスラーが疲れた顔で現れた。服は昨夜のままだった。
「お早う。」
 オーリーは務めて明るく声をかけた。
「少しは休めたかい。」
 イヴェインが小さく首を横に振った。
「やっと事件以外のことを考えられるようになったところ。」
「じゃあ、ドーナツを食べて眠るといい。」
 差し出された袋を、イヴェインはぼんやりした顔で受け取った。
「有り難う。夕方まで寝ていていいかしら。」
「いいとも。」
 質問したいことがあったが、今日はよそう。オーリーも疲れていた。
「勤務交代で、別の刑事が来るかも知れないが、俺が担当だから、困ったことや思い出したことがあれば、ここに電話して。」
 携帯電話の番号を彼女に渡すと、初めてイヴェインは弱々しく微笑んだ。笑うと右の頬にえくぼができて、可愛らしかった。
 オーリーは彼女の肩越しに室内に視線を向けた。
「レニーもここに泊まったのかい。」
 イヴェインが視線を彼からはずした。ちょっと躊躇いがちに言った。
「いいえ・・・その・・・彼女は明け方に帰ったの。」
 オーリーは彼女に視線を戻した。
「帰ったって?ソーントンの屋敷に?」
 きつい口調になっていたのかも知れない。イヴェインは身を縮めて頷いた。
「だって、あそこは彼女の家だし・・・」


2013年8月29日木曜日

赤竜 1 その5

 彼女はドアを乱暴に叩いた。騒がしいと叱られても構わない、と思った。窓が割られる音がして、彼女の緊張 は高まった。スラム育ちの娘は、夢中でドアに体当たりした。分厚いくせに古くて脆いドアは、あっさりと破られた。イヴェインは勢い余って室内によろめき 入った。書棚は倒れていなかったが、本と言う本が床に投げ出されていた。その下から見覚えがあるズボンをはいた脚が出ていた。イヴェインは主人の名を呼び ながら、本を彼の体の上から投げ捨て、重たい埃だらけの紙の山から救い出そうとした。しかし数分後に彼女が目にしたものは・・・。
 事情徴収は彼女の涙で屡々中断された。記憶も所々曖昧になっていて、正確な時刻や順番がなかなか思い出せなかったりした。オーリーは彼女を慰め、励ました。そして彼女が大体を語り終わり、落ち着きかけた時に、彼は一つの疑問を投げかけた。
「”お嬢様”は何時から出かけていたんだい。」
 屋敷に”お嬢様”の部屋はなかったはず、と彼は思った。老人と同じ部屋で寝起きしているのであれば、話は別だが。
 イヴェインが洟をかんで答えた。
「レニーは何時も日が落ちると出かけるの。そして夜明け前に帰って来る。何処に行くのか、知らないわ。なんだか、聞いてはいけないこと、て感じだった。」
 オーリーがイヴェインの肩を抱いて部屋から出ると、廊下のベンチに”お嬢様”が座って待っていた。彼女も行き場がなかったので、ついてきたのだ。壁に頭 部をもたれかけて、目を閉じていた。疲れている様子だ。オーリーたちが廊下に出た時、彼女の耳が動いた様な気がして、オーリーはビクッとした。
「終わりましたよ、ミズ・・・」
 長い名前だ。イヴェインがまた紹介してくれた。
「レインボウブロウ、レニーと呼んでいるの。」
 ”お嬢様”が目を開いて立ち上がった。オーリーたちを振り返らずに尋ねた。
「もう、彼女を連れて帰っていいか?」
「ああ、何処に帰るつもりです。」
 オーリーは最寄りのモーテルを抑えていた。女性二人、犯罪現場に帰したりしたくない。
 果たして、レインボウブロウはイヴェインを見て、
「屋根がある所」
と言った。イヴェインが屋敷を出る時に急いで持ち出したショルダーバッグから、クレジットカードを出した。
「一晩ぐらいなら、ホテルでも泊まれるわ。旦那様が買い物用に持たせて下さったの。」
 そして、主人を思い出して、また彼女は涙ぐんだ。レインボウブロウが彼女の腕を掴んで引き寄せた。そして、オーリーを見たので、彼は警官に案内させることを約束した。
 身内が死んだのに、何故この娘は泣かないのだ、とオーリーは素朴な疑問を抱いた。女中がこんなに嘆き哀しんでいるのに。
 報告書を書いていると、ライリーが別の事件の報告を受けた。上着を着ながら彼はオーリーに来なくていい、と言った。
「制服と一緒に行く。夫婦喧嘩の行き過ぎで傷害事件に発展だ。」
「当ててみようか。」
 オーリーはタイプライターを叩きながら言った。
「ボビーとリックの男夫婦だろ。」
 ライリーは肩を竦めて「当たり」と表現した。
「このタイプ、Rが摩耗しているんだよな。」
 オーリーは刑事部屋の全員が不満に思っていることを口に出した。
「パソコンでも買ってくれればいいのに。」
「市の予算が崩壊寸前なのに、贅沢言わない。」
 ライリーがにやけた。
「交通課か、内部調査室で書いてくれば?」

2013年8月26日月曜日

赤竜 1 その4

刑事も目撃者も疲れていたが、事情徴収は必要だった。イヴェインは屋敷の外に知り合いがいなかったので、署に連れて行かれた。そこで死体発見の経緯を説明させられた。時々激昂することがあったが、粗筋は簡単だった。
 夕食の後で、主人のオーランド・ソーントンが彼女に11時に書斎に来るように、と言いつけた。書斎はソーントンの聖域だった。老人はこれまで一度もイ ヴェインを中に入れたことがなかった。イヴェインは一度だけドアの隙間から中を覗いたことがあった。古い黴臭い書物がぎっしり詰まった背の高い書棚が見え ただけで、彼女は興味を失って、それ以来その部屋の存在を気にしなくなった。だから、書斎に来いと言われて驚いたのだ。
ソーントンは普段夕食の後かたづけが終わればイヴェインを自由にさせた。彼女は近所の映画館へ出かけたり、リビングで好きなテレビ番組を見たり、屋敷に来 てから習った紙人形造りをして寝る前の時間を潰した。友達はいなかった。屋敷に来てまだ半年で、近所には彼女と同じ環境で育った人間がいるようにも見えな かった。だから、彼女は普段10時前になればパジャマに着替えてベッドに入っていた。しかし、旦那様に「来い」と言われて、パジャマではまずいだろう、と 思ったので、昼間の服装のままでいた。ソーントン家ではお仕着せはなかったので、Tシャツとジーンズや綿パンツだ。
 11時に、イヴェインは書斎のドアの前に立った。ノックをしたが、返事はなかった。ノブを掴んで押したり引いたりした。やはり開かなかったので、彼女は 主人が中でうたた寝でもしているのでは、と想像した。それで、自分の部屋に戻って寝支度をしてから、もう一度書斎に戻った。ノックをしようと手を挙げた 時、中で物が崩れる大きな音がした。書棚が倒れた、とイヴェインは思った。
「旦那様、大丈夫ですか、何があったんですか。」

2013年8月25日日曜日

赤竜 1 その3

彼女の声は平坦だった。お嬢様に事件をどう説明するべきか、お嬢様が帰ってきて安心するべきか、彼女はまだ頭の中の整理が出来ていなかった。
 オーリーは門を振り返り、小柄な女性が制服警官の制止を押し切って庭に入ってくるのを見た。
 イヴェインがベンチから立ち上がったので、オーリーは彼女に確認の意味で尋ねた。
「彼女がお嬢様だね。」
 イヴェインは頷いた。
「レインボウブロウ様です。」
 小柄な娘が二人の方へ真っ直ぐ歩いて来た。黒髪をボーイッシュに短く切りそろえたヘアースタイルで、着ている物も活動的だ。黒いレザーのブルゾンの下に鱗状のデザインのシャツを着て、黒いレザーパンツをはいていた。靴は黒いスニーカーだ。
「ミズ・ソーントン?」
 オーリーが尋ねたが、彼女は無視した。イヴェインを見て、短く質問した。
「なに?」
 屋敷の内外の騒ぎを尋ねたのだ。イヴェインが涙声で答えた。
「旦那様がお亡くなりになりました。」
 ”お嬢様”は彼女を暫く見つめ、それからオーリーに初めて視線を向けた。
「誰。」
 オーリーはバッジを出した。
「市警のオーランド・ワールウィンド刑事です。」
 彼は娘の目を見た。こんな目をした人間を見たのは、初めてだ、と感じた。娘の目は奇妙に見えた。何が奇妙なのか、判明するのは、翌日のことだったが、オーリーはこの時既にこの若い女性に奇異なものを感じた。
「彼は何処。」
と彼女がイヴェインに尋ねた。イヴェインが躊躇いながら、屋敷の窓を指さした。パジャマを着た死体が横たわっていた書斎の窓だ。丁度その時、黒い死体袋を 持った警官たちが出て来た。イヴェインはその中身が誰かわかった。彼女の息を呑む音で、”お嬢様”も察した。彼女が不意に死体袋に向かって歩き出した。 オーリーは留めようかと思った。女性が見るには酷すぎる死体だ。否、女性でなくても、身内には見せたくない状態だった。しかし彼女は袋に向かって声をかけ た。
「オルランド」
 オーランドのことだ。そして袋に手をかけた。運んでいた警官たちが驚いた。
「ちょっと・・・」
 オーリーは腹を決めた。どうせ遺体の身元確認はしてもらわねばならない。死体を見て彼女が卒倒するのが庭先か、モルグかの違いだけだ。
「いい、見せてやれ。」
 オーリーの言葉で、警官たちは足を止めた。娘は自分で袋のジッパーを開いた。イヴェインが後ろを向いた。目を硬く閉じて、1時間前に目撃したものを見た くない、と態度を明確にした。警官たちも視線を宙に泳がせた。オーリーは娘が何時卒倒してもいいように、彼女の背後に立った。
「頭が無い。」
 ”お嬢様”が呟いた。彼女は警官たちを見て、イヴェインを見て、オーリーと目を合わせた。驚きも恐怖もなく、事実だけを彼女は把握した。
「オルランドの頭は何処。」
 オーリーは正直に、しかし、塀の外には聞こえないように気遣いながら、答えた。
「無かった。犯人が持ち去ったらしい。」
 沈黙。オーリーはこの嫌な静寂の中で思った、何故この女は身内の首無し死体を目の前にして冷静でいられるのだ。
 ”お嬢様”が視線を死体に降ろした。そして、驚いたことには、彼女は身を屈めて死体に顔を近づけた。
「すまない。」
と彼女が死体に話しかけた。
「頭が無ければ、救えない。」
 彼女はジッパーを上げ、警官たちに頷いた。もう袋には目もくれないで、彼女はイヴェインとオーリーのそばに戻って来た。そして、イヴェインに尋ねた。
「何を知っている?」

2013年8月15日木曜日

赤竜 1 その2

 殺人事件の現場は多く見てきたつもりだったが、今夜の死体ほど奇妙なものはなかった。死体はパジャ マ姿だった。男性だ。それは肩から下の体格や、下半身を見ればわかった。相棒のライリーは傷口を見ないようにしていた。オーリーは血の匂いと古い書斎に立 ち籠もる埃に耐えかねて庭に出た。鑑識と検死官が入れ違いに中に入った。制服警官が若い女性を庭のベンチに座らせて声をかけているのが目に入った。彼女が 通報者だ。そして、死体の第一発見者。フェンスの外ではパトカーのルーフライトが点滅して、人の話し声が聞こえた。真夜中だと言うのに、近所の連中が物々 しい気配に感づいて起きて集まっているのだ。オーリーは女性に近づいた。
「ミズ・・・」
 名前を聞いていなかった。制服警官が彼女の代わりに教えてくれた。
「ミズ・イヴェインです。イヴェイン・カッスラー。」
 オーリーは頷いて、警官に行って宜しいと、合図した。警官は女性に優しい一瞥をくれて歩き去った。
 イヴェイン・カッスラーは涙でべとべとになった顔をオーリーに向けた。大きな目が不安で満たされていた。まだ若い。20代になるかならぬかの、ほっそり とした娘で、Tシャツとゆったりとした綿パンツを身につけていた。彼女が911をダイヤルしたのは日付が変わる前後だった。これから寝ようとしたところ だったのだろう。
「イヴェイン」
とオーリーは親しげに名前を呼んだ。
「君はここに住んでいるの。」
 彼女が小さく頷いた。何度も首をたてに振る。まだ落ち着いていないのだ。
「亡くなっていたのは、ソーントン氏だね、ここの主人のオーランド・ソーントン。」
 オーリーは少し不愉快な気分で被害者の名前を発音した。自分と同じ名前だ。イヴェインが蚊の鳴く様な囁き声で答えた。
「そう思います。旦那様のパジャマを着ていたから・・・」
 彼女の発音には微かに訛りがあった。ここよりずっと生活環境が悪い地区の住人の喋り方だ。なるほどな、とオーリーは思った、古いお屋敷にスラム育ちのアフリカ系の女中。
この家に来てから教育されたのだろうが、事件のショックで生まれた土地の言葉が出てくるのだ。
「この家は君とソーントン氏の他に誰かいるのかな。」
 現在のところ、オーリーもライリーもイヴェイン以外の人間に出会っていなかった。屋敷の間取りを調べ、犯人の遺留品や、犯人そのものを探した時も、多く の人間がいる気配はなかった。主人の寝室と、使われていない客間、使用人の部屋は台所の近くだった。がらんとしたリビングと食堂、バスルーム、そして死体 が発見された書斎だけの屋敷だ。老人と若い女中の二人暮らしだろうと想像した。しかし、イヴェインは首を振った。
「レニーが・・・お嬢様がいらっしゃいます。」
 オーリーは建物を見た。ツタがからまる平屋建ての屋敷が、パトカーの回転灯やライトに照らし出されて不気味に彼の前に立ち塞がっていた。
「そのお嬢様と言うのは、ソーントン氏の娘かい?ここに住んでいるのか?」
 イヴェインが返事を躊躇った。
「旦那様とお嬢様の関係は知らないんです。お二人がご一緒の時は、滅多になかったから。それに、私はお嬢様とは余り話ししたことなかったし・・・。」
 オーリーは少し困った。このソーントン家は普通の家庭ではないらしい。だから、普通でない殺され方をしたのか?
「そのお嬢様は今何処にいらっしゃるのかな。」
 オーリーが尋ねた時、イヴェインの視線が門に向けられた。
「あ、お嬢様だわ。」


2013年8月14日水曜日

赤竜 1

プロローグ

 館の中は血の匂いでむせ返る様だった。ブロンドの女鬼は兵士と召使いを食い殺してしまうと、手にこびりつ いた血を嘗めながら奥の部屋へと進んだ。木製の寝台に藁を敷いて寝ている若い男を彼女は戸口で眺めた。若者は熟睡していた。広間で起こった惨劇を知らず に、鬼が放った妖気によって深い眠りに落ちていたのだ。壁に取り付けられた松明の薄暗い明かりに、彼の寝顔が照らされていた。女鬼は彼を直ぐに食ってしま おうか、少しいたぶってやろうかと、迷いながら寝台に近づいた。男は彼女の一族を殺したのだ。昔からこの土地を支配していた彼女の一族を追い払おうとした 人間共に雇われた余所者だ。彼女には彼を食らう正統な理由があった。若者はまだあどけない表情さえ残していた。何故こんなガキに一族が倒されたのか、彼女 は理由がわからなかったが、今目の前で彼は無防備を曝していた。人間とは他愛ないものよ、と彼女は思いつつ、寝台の脇に身を屈め、男に顔を近づけた。その 時、何者かが彼女の上に影を落とした。彼女は顔を上げる前に後ろへ跳び下がった。
 寝台の向こうに若い女が立っていた。女鬼は不機嫌に唸った。その女はほんの少し前までそこにはいなかったのだ。炎のように赤い髪と血のように赤い目と赤 い鱗状の鎧を身につけた女だ。鬼が牙を剥き出して威嚇しても、彼女は動じなかった。寝台の上の男を守るかの様に立って女鬼を見つめた。鬼は血だらけの両手 を振り上げた。鋭い爪で赤い女を裂くつもりだった。しかし、その目に松明の明かりが壁に落とす赤い女の影が映った。鬼はもう一度牙を剥いて威嚇したが、そ れは獲物の確保ではなく、彼女自身の防御が目的だった。赤い女が手を動かした。鬼は素早く身を翻し、板張りの窓を突き破って屋外へ飛び出した。
 物音と冷たい風に、男が目覚めた。何が起こったのか、掴めぬまま、彼は寝台の藁の下に置いた剣を手に取り、広間に走った。そこは血の海だった。生きてい る者は誰もいなかった。鬼が現れたのだ、と彼は悟った。生き残ったのは彼唯一人だった。彼は寝台に駆け戻り、身の回りの物を手早く袋に詰め込んだ。枕代わ りにしていた古い書物も衣服にくるんで入れた。この本は先祖代々伝わる大切な家宝だ。彼が信仰する神の教会ではその種の書を読むことは異端として禁じられ ていたが、彼の一族は大切に隠し守ってきた。鬼が出る館に残す訳にはいかなかった。手早く身支度を済ませると、彼は松明を壁からはずして、厩へと駆けだし た。