2012年9月30日日曜日

大河内家の厨房



 大河内家は土地の旧家で、築200年とも言われる古い家を今でも使用している。
 県が文化財に指定するとかで、そうなると改修するにもいちいち県の許可をもらわなくてはならなくなるので、大河内家はちょっと困ってしまった。
文化財に指定されても、維持費が出るでもなく、実際に住んでいる人には誇りがあるだけで、埃だらけの家が綺麗になる訳じゃない。
 指定される前に触れる箇所の改修をしておこう、もしかすると指定からはずされるかも知れないが、それでもいいじゃないか、と言うことで、大河内家の人々は水回りやご不浄の改修を始めた。
 トイレや下水は、下水道につなげて、外見はそのままに残す。今時汲み取り業者もそんなにいないし、これは自治体から補助も出る。
 大河内家の厨房は、土間に竈や井戸がそのまま残っていた。上水道を引いているが、井戸は時々使用する。釣瓶があって、蓋をはずして水を汲むので、子供などは井戸に近づいてはならないとされていた。
 
  大工の息子で10歳の昭夫は父親についてきて、台所の改修をする父親を手伝っていた。古い家は子供には珍しい物ばかりで、天井近くの神棚も興味を引いた。 井戸の釣瓶も初めて見る。父親は蓋が閉まっていたので注意を怠った。昭夫は井戸に近づき、蓋に少し隙間があるのを発見した。穴から覗くと、遙か遠い真っ暗 な空間の果てに、ぽつんと光の点が見えた。昭夫の頭で光が遮られ点が消えると、昭夫は蓋をもう少しずらして見た。闇の底に小さく自分の影が映っていた。 もっとよく見ようと首を伸ばした時、胸ポケットに入れていたキャンディーの包みがぽろりと抜け出て、井戸に落ちていった。
 ちょっと間があってから、ポチャンっと音がした。
「キャンディ、落ちちゃった。」
昭夫の声に振り返った父親が、「井戸を汚すんじゃない」と言って、彼をそばに呼び戻した。昭夫は蓋を開けたまま、井戸から離れた。

 帰りに井戸を見た昭夫は、ちょっと驚いた。蓋の上に落としたキャンディが載っていたからだ。蓋はちょっと濡れていた。

聞いた話

奈良県に住む友達の娘が中学生の時の話。

クラスの仲良しばかり数人で、近所の山へハイキングに行った。
森の小道を散策し、なだらかな斜面で町を見下ろしながら、お弁当を食べ、道中お喋りしながら、半日楽しく過ごした。
途中で、誰かが草むらに白い木の破片の様な物が散らばっているのを見つけた。
真っ白だったので、注意を惹いたのだ。よく見ると、動物の骨らしい。
友達の町では、珍しくなかった。奈良県は鹿が多く、ちょっと藪に入ると自然死した鹿の亡骸などを見つけることもあるのだ。
友達の娘は動物の骨に興味がなかったが、物好きな女の子が一人、大きめの骨を記念にと拾って帰った。

その夜、友達の家に警察官が来た。
骨を発見した時の状況を詳しく知りたいと言う。
なんでも、拾って帰った子の親が、その骨を見て、鹿の骨ではない、と感じて、警察に通報したのだと言う。
警察でも、それは人の骨だろうと言うことで、検屍官に見せ、果たして人骨であると確認されたのだ。
友達の娘はどきどきしながらも、しっかりと見つけた場所や骨の散らばり方、他のゴミと思われた遺留品などを語った。

警察官は彼女に感謝して帰って行った。
友達の一家はその夜、ちょっと興奮してよく眠れなかった。
学校でも、その話でもちきりになった。警察官はあの時ハイキングに参加した子供たち全員の家に来ていた。不思議なことに、それが全部同じ時刻だった。ちょうど子供たちが好きなドラマが終わった時刻だったので、みんな覚えていた。
友達はちょっとおかしいな、と思った。10人近い子供の家に一斉に事情聴取に来るものだろうか。警察官がそんなに大勢繰り出すような事件なのだろうか。
友達は警察に電話してみた。あちらこちらと電話は回された。と言うのも、友達の家に巡査を寄越した刑事とか、捜査課が見つからなかったからだ。
最後に、骨の通報を受けた刑事がやっとつかまったが、巡査を生徒の家に派遣した覚えはないと言う。
「確かに人骨でしたが、自殺者と思われ、事件性もないので、そんな夜分に子供さんから事情聴取するようなことはありません。」

では、子供たちの家に同時に現れた警察官たちは何者だったのだろう。
切れ長の涼やかな目に、かすかにニキビが残っていた頬、きりっとした薄唇、顎の左にあった黒子・・・目撃者の証言は全部同じだった。
そして、一つ判明した・・・

心神耗弱状態で数年前に退職した元警察官が一昨年の末から行方不明だったこと。

2012年9月27日木曜日

K課長の思い出話

K課長がお昼休みに、昔話をしてくれました。

「俺が小学校の頃に、近所に偏屈なおっさんがおってな。
ある日、俺等がキャッチボールをしていたら、ボールがそのおっさん家(ち)の庭に入り込んでしもうた。俺等は塀越しに『おっちゃん、ボール返してんか』って言うたんや。
そ うしたら、そのおっさん、俺等が礼儀を知らん、言うて怒りよってな、仕方がないから、俺が代表で玄関まで行って、頭下げて、『ボール取らし(せ)てくださ い』って謝ったんや。それやのに、その偏屈なおっさんは、『儂の庭に入ったボールは儂のもんや。おまえ等のもんと違う。さっさと帰れ!』って言いくさり よってな。埒があかんから、俺等も諦めたんや。」
課長はそこで、お水を一口飲んでから、
「ところが、それから数日たって、そのおっさんの家の前を通ったら、家のもんはみんな留守で、庭に面した障子が前部開け放ったままやった。夏やったし、今と違うて田舎では泥棒なんてなかったから、無防備やったんや。
それで、俺は庭に入って、散水栓のホースをおっさんの部屋に向けてな、水を撒いてやったんや。スカッとしたわ。後で親父にばれて、大目玉食ろうたけどな。」
課長はそこでちょっと食べてから、また続けました。
「高校卒業する前に、俺は地元の会社をいくつか面接受けたんや。ほんまは大阪行きたかったんやけど、親が地元を望んだからな。
三 つ目の会社の面接で、机の向こうに座っとったのが、例の偏屈なおっさんやった。おっさん、俺を覚えとってな、『あ、おまえ、いつかの悪ガキ!』って言うた わ。俺もその時には多少は大人やったから、『その節は大変ご迷惑をおかけしました』って謝った。すると、おっさん、大声で笑いよって、『まったく、あの時 は家の中を水浸しにされて、往生したわ。』やて。
それから、『おまえ、ほんまは田舎でくすぶる様なヤツ違うやろ。大阪とか、出たいのと違うか?』って聞きよった。
俺が『うん、大阪行きたいです』って言うたら、なんと、紹介状書いてくれてな、T紡績に就職出来たんや。何が縁になるか、人生わからんもんや。」

それで、私は

「要するに、その『おっさん』は、課長を厄介払いした訳ですね?」

課長はちょっとムッとして

「まぁ、そう言えるかも知れんな。ところで、君のステーキが一切れ、さっき君がナイフを入れた時に、俺の皿に飛んで来たが、これは俺のものだから、返さないぞ。」

2012年9月20日木曜日

吸血鬼

その1

吸血鬼
「血ぃ吸うてもええ?」

人間
「ええけど、後で杭が残るで。」


その2

吸血鬼
「君と一緒に昼を共に過ごしたいなぁ・・・でも、店で売ってるお棺は全部一人用で、狭いんだ。」

人間
「それは残念やなぁ・・・うちのおカンやったら、二人分の幅があんのになぁ・・・」

夢ではない

蒲団の中で目を閉じていると、妻が台所で朝食の準備をしている音がする。
炊飯器の蒸気を出す音、包丁で野菜を刻む音、鍋で何かが沸騰している・・・

目覚ましが鳴って、私は渋々起きる。途端に全ての音は消え、室内は暗く、誰もいない。勿論、台所に朝食の用意が出来ているはずもなく、私は食パンをトーストしてインスタントコーヒーで簡単に朝食を済ませ、勤めに出る。

妻が亡くなって、早くも10年たつ。
だが、彼女の念はまだ残っている。
毎朝、彼女は朝食の支度をしている。私が瞼を開ける前まで。
夕方、彼女は夕食の支度をしている。私が玄関のドアを開けるまで。
室内の照明が瞬時に消え、食事の匂いも消滅する。廻っていたはずの換気扇も停まる。
もしこれが、私だけの体験だったらなば、どんなに気が楽だろうか。
私の頭がおかしくなった、で済むのに。
しかし、これは私の家を訪問する全ての人が体験するのだ。
宅配業者や郵便屋は、昼間、私が仕事に出ている留守宅で、窓越しに彼女が掃除をしたり、洗濯物をベランダに干すのを目撃している。
近所の奥さんたちは庭先の彼女と挨拶を交わしている。
私には音しか聴かせてくれないのに、彼らは彼女と会って言葉まで交わすのだ。
こんな理不尽があるだろうか?
私が仕事に夢中になって家庭を顧みなかった復讐だろうか。
彼女が体調不良を訴えた時に、医者へ行け、と言ったきり、気遣いすらしなかった報いなのか。

身支度をして私が玄関で靴を履いていると、奥の部屋で、妻がカーテンを開ける音が聞こえた。
私は思いきって声をかけた。
「行ってきます」
もう何年も言わなかった言葉だったから、声がかすれてしまった。
返事を期待していなかった。しかし、
ドアを閉める直前、声が聞こえたような気がした。
「行ってらっしゃい」

私は、彼女が私を迎えに来るまで、頑張って声をかけ続けようと思った。

2012年9月16日日曜日

ナオミさん

「マスター、もう一杯!」
陽気な客の声が響いた。ヒロシはグラスにビールを注ごうとして、手を止めた。店の入り口そばに、ナオミが立っているのが見えたのだ。
彼は客に言った。
「今夜はそこで控えた方がいいですよ。それより、そのお料理、ちゃんと召し上がって下さいよ。」
「え~、ちゃんと食べるよ、だから、もう一杯だけ・・・」
しかし、客の連れが、やはりちらりとヒロシの視線を追いかけて、仲間に忠告した。
「止めておけよ。歩けなくなったら、困るだろ?」

半時間後、いい具合に出来上がった客たちがお勘定を済ませた。
ビールの追加を断られた客が、ヒロシに囁いた。
「マスター、今日のナオミさんは、怒ってた?」
「いいえ。」
ヒロシは柔らかな笑顔で答えた。
「穏やかな顔でこっちを見ていただけですよ。」
「そっか! じゃ、今夜は無事に帰れるな。」
客はホッとした表情で出て行った。

ヒロシは最後の客が出て行った店内の掃除をしながら、出窓の小瓶に差したバラを見た。
アルバイト従業員のタカシが外の立て看板とメニューボードを片付けている。
タカシが出所して半年たった。
あれから彼は一滴も酒を飲んでいない。
毎日小瓶に水を足し、花がしおれると取り替えるのは、タカシの仕事だ。
それは、タカシの反省であり、二度と過ちを繰り返さないと言う決意表明でもある。
タカシとナオミ、お似合いのカップルだった。タカシが飲酒して、ナオミが彼の運転を止めるのを怠るまで。
タカシのクルマがスピード超過で川へ転落し、ナオミが逃げ遅れ・・・。
タカシは交通刑務所で刑期を務め、ナオミはこの町の飲食店、至る所に出没した。飲酒する客が度を過ぎたり、ドライバーだったりするとそばに立っている。それだけだ。だけど、見える人には抑止力を発揮するのに十分だった。

ナオミは、タカシを恨んでいるのではない、とヒロシは理解している。
彼女は自分が許せないのだ。
彼女が成仏出来るのは、この町から飲酒運転のクルマがいなくなる時だろう。
それまで彼女は彷徨い続ける。
ドライバーたち全員が節度を守る迄。

田圃の秘密

子供の頃、田植えが始まる前の、代掻きをする前、蓮華畑になっている田圃で走り回って遊んだものだ。
代掻きが終わって田植えが行われる前の日、男の子達が「合戦ごっこ」をしようと言い出した。
誰かが、子供向きに編集された「太閤記」を読んで、墨俣城の建築のくだりで、泥の川で秀吉側の野武士と美濃の軍勢の合戦を再現したくなったのだ。
田植えが始まったら、もう泥田では遊べないから、チャンスは今日しかないのだ、とその友達が主張し、学校が終わると、クラスの男子は全員田圃の畦道に集合した。
刀の代わりに竹の棒を持つ。ルールは簡単、絶対に「突かない」こと。「顔を狙わない」こと。「首から上は叩かない」こと。「肩か背中に泥が付いたら、斬られたことにして田圃から出る」こと。
グッパで二手に分かれて、田圃の両側から号令と共に泥の中に跳び込んだ。
竹の棒と言っても、どれも古くて繊維が見えるくらいくたびれているから、叩かれてもそんなに痛くない。
あちらこちらで、パンパン、バシバシ、と音が響き、バチャッと泥に倒れ込む音がする。
田圃の泥は温かくて柔らかい。大人が見たら怒るだろうが、そんなことは後の心配で、みんな夢中で初夏の前日を楽しんだ。
僕は敵陣の中に勇敢に切り込んで、敵将たる学級委員のお尻に泥を付け損ない、急いで退却しようとした。
突然、脚が何かに引っかかって、僕は顔から泥の中に倒れ込んだ。
ちぇっ! 自損事故だ。
僕は脚を引き抜こうとしたが、何故か動かない。そんなに泥は深くないはずだが・・・僕は足首に何かが絡まっている感触を覚え、視線を向けた。
泥だらけの手が僕の足首をがっしりとつかんでいた。僕は、その手が、泥の中から生えていることに気がついた。友達は合戦ごっこに夢中で、僕のそばに倒れているヤツはいなかった。
この手は誰の?
僕は恐怖に駆られ、夢中で竹棒で泥の面を叩いた。
手が離れ、僕は田圃から死にものぐるいで這い上がった。

この話は誰にも言っていない。
言っても笑われるだけだ。
そして、大人になってからも僕は泥田には入らない。
僕が農家を継がずに都会に出て会社勤めをしているのは、実はそう言う理由からなんだ・・・

2012年9月12日水曜日

ある事件

今日の午後3時40分頃、JRなんたら駅構内の喫茶店で市内の会社員Aさんが、妻のB子さんに顔を往復ビンタされ、全治死ぬまでの心の傷を負う事件が発生しました。
目撃者の証言によると、AさんとB子さんは向かい合って座っていましたが、突然B子さんが腰を浮かして、テーブル越しにAさんの顔面を平手で殴ったと言うことです。
調べに対しB子さんは、
「夫の浮気が原因で離婚話をしていた。夫が二度と浮気をしないと誓った、その舌の根が乾かぬうちに、店の窓の外を通りかかった女子高生に視線を向けた。いつも肝心な時に気を抜いて油断する夫の性格が許せなかった。」
と言っています。
なお、今回の事件で夫婦仲は修復不可能とB子さん側の弁護士は断言しています。
離婚が成立すれば、Aさんは無一文の宿無しになることが必至で、辛い冬を過ごすことになりそうです。

以上、ニュースをお伝えしました。

スジ

美容院で先生に髪を切ってもらっている時、アシストさんが出勤してきました。挨拶しましたが、何かちょっと不機嫌な表情。私と先生が二人で盛り上がっていたのに嫉妬するはずもないし、何かあったのかな、と思っていたら、そのうち、こんなお話を始めました。

昨日、アシストさんは自宅でスジ(牛スジ)を煮込みました。自分でもなかなか美味しく煮込めたと思ったそうです。固い部分が少なくて、ゼラチン質のプルプルが多く、出汁をしっかり出して、また味もよくしみ込んでいたそうです。
そして、今朝、アシストさんが起きて二階の寝室から出て階段を下りると、下で姑さんが待ち構えていて、いきなりアシストさんに苦情の申し立てを始めました。
なんでも、昨夜、隣家の息子が遊びに来て、アシストさんの息子と一緒に晩ご飯を食べた時に、当然お総菜にスジの煮込みも食べました。
姑さんはそれが気に入らなかったらしいのです。

「あんな美味しいスジ煮込みは二度と食べられないかも知れないのに、どうしてあかの他人に食べさせた!私が今朝食べようと思ったら、もう残っていないじゃないか!!」

と言う訳です。
アシストさんは、「たかがスジ煮込みでなんで朝っぱらから文句を言われなければいけないのか、これから機嫌良く仕事に行こうとしていた時に・・・スジなんて、これから何度でも煮込んであげられるじゃないの」
と不満だったので、不機嫌だったのです。

スジの通る話でしたでしょうか?

記憶喪失

章は昔から身勝手な記憶喪失に陥ることで有名だった。
普段は記憶力の良い男なのに、兎に角自分に都合の悪いことや嫌なことはすぐに忘れるのだった。
だから、章がある殺人事件に巻き込まれた時、彼の証言を期待した刑事達は失望させられた。

「どうしても思い出せないって言うのか?」

「ええ、駄目みたいです。嫌なものを見てしまったので、即行でそこの時点だけ記憶を削除しちゃったみたいで・・・」

「困った男だな。」

「そうですね、事件の当事者なのに・・・」

「彼の今の立場だったら包み隠さず喋ってくれると思ったんだが・・・」

「犯人はそこで彼の霊に手を合わせて告白してるんですからね。被害者がそれを裏付ける証言をしてくれると期待したのに・・・」

「なんで幽霊になってまで、物忘れするんだよ!」

2012年9月10日月曜日

いつも3人

 洋子が嫁いで来た時、田宮家は既に透と母親の二人暮らしだった。家族が増えること、それも「娘」ができる、と母親はたいそう喜んだものだ。買い物にも洋子と二人でそろって出かけることを楽しみにしていた。洋子もすぐに馴染んで、姑との買い物が当然のものとなっていった。
お魚は三匹、お肉は三人分、野菜も三人分、食器もおそろいのを三人分・・・
なんでも「三人分」だった。

 突然の事故が、田宮家を再び二人だけの家に戻してしまった。
透は哀しみが癒える頃、家庭内の様子が少し違うことに気づいた。
二人しかいないのに、いつも食事は三人分用意されている。
なんでも「三人分」だ。
最初は、ちょっと戸惑った。
「でも、私たちは三人なのよ。」
と洋子が言う。
そうだね、と透は頷いて見せた。それで妻の心が慰められるのならば。

 喪が明けて。休日にお寿司を食べようと言うことになり、二人はバスに乗ってちょっとばかり遠出した。二人になってから昼間家の中に閉じこもりがちだった彼女も、気晴らしになると喜んだ。
初めての店に入った。会社の同僚から「美味い寿司を出す」と評判の店だ。
「へい、らっしゃい!」
威勢良い板前の声に迎えられ、カウンターに座った。
おしぼりが出された。
「え?」
おしぼりは三人分だった。お茶も三人分が置かれた。
横を見ると、彼女がルンルン気分で使っている。

気にならないの?

透はちょっと心配になる。何も知らない板前が無邪気に尋ねた。
「何になさいます?」
一瞬躊躇する透の代わりに、母親が返答した。
「まずコハダ、それからマグロ、嫁にはヒラメとトロを握ってやって。 透、あんたは?」
透は板前を見た。板前は、彼女の言葉に全く疑問を抱いていない様子だ。ニコニコと透の返答を待っている。

この板前には、見えているんだ・・・

透は板前を怖がらせる必要はないと判断した。
「僕は海老とコハダ・・・」

他の客が不思議そうにこっちを見ていたが、透はもうかまわない、と思った。
僕らはいつも三人なんだ。
洋子とお袋と僕と・・・

帰路は、川端の道を三人で歩いて帰った。
夕暮れの風が爽やかに吹いて行く。
「いつまでも、こうしていたいわね。」
と母親が言った。
「でも、私がいたら、ご迷惑でしょう?」
と洋子。
「そんなことないわ。私は貴女とずっと一緒にいたいのよ。透が将来再婚したとしても、私は貴女と一緒に暮らしたいわ。」
「そんなの、駄目です。新しいお嫁さんも可愛がってあげてくださいよ。」
洋子はちょっと恨めしそうな顔をして、川っ縁の柳の木の下に立った。

「ほら、新しいお嫁さんと幸せになってくれなきゃ、化けて出ますよ〜」

2012年9月9日日曜日

筍泥棒

竹藪で・・・

女性「そこで何をしてはるんですか?」

男性「筍採ってまんねん。」

女性「そやかて、ここはうちの竹藪でっせ。」

男性「せやけど、儂、新鮮な筍食べたかったんや。」

女性「食べたかった言うても・・・他人の竹藪でっせ。」

男性「せやって、筍ぎょうさんあるやないか。あんた、これ、全部食べるんか?」

女性「そんなん食べられませんわ。」

男性「あんたの家族全員でも食べられへんやろ?」

女性「そりゃ・・・食べられへんけど・・・」

男性「筍は、採ったその日に食べんと鮮度落ちるんや。」

女性「そうですわなぁ・・・」

男性「せやから、儂が食べんといかんねん。ほったらかしにしたら、今日の筍、明日はもう食べられへんやろ? めちゃもったいないやんか!」

女性「そうやね・・・」

男性「せやから、これ、儂がもらうんや。ほれ、見てみぃ! この見事な筍、店で買ったら一本900円はするでぇ。」

女性「すごいねぇ!」

男性「あんた、ええのいっぱい生えてるから、早よ採りや。 儂、急ぐよって、もうおいとまするわ。ほななーーー!!」