2012年1月21日土曜日

「いいかな?」

学生時代の旅の思い出と言うなら、私にも少しばかり・・・。

 妹がY県の大学に入ったので、夏休みに遊びに行った。あちらで妹と合流して、少し遊んで一緒に帰ると言うプラン。
 初日は妹が住んでいた大学の寮に泊めて貰った。国立大学の学生だったら学生証を見せるだけで、全国どこの国立大学でも寮に泊めてもらえるシステムだった。(勿論、異性の寮はいけません。)
素泊まりで、ただ寝るだけ。夏休みなので職員はいなくて学生だけだった。

 夕食は、妹が選んだレストランに行った。多分、妹はずっと以前からそこに目をつけていて、金蔓が来るのを待っていたに違いない。(笑
 ドアの前に立った時、彼女は私の顔色を窺うように声をかけた。

「ここで、いいかな?」

 料理は、フレンチっぽい洋食。フレンチと断言出来ないのは、つまり・・・なんとなく「和」が入ってると言うか、田舎の人が「フレンチって、きっとこんなんだろう」と考えて作った様な、そんな野暮ったいところがある料理だったから。
 だけど、美味しかった。 妹は大好物のローストチキンがクリームスープにどっぷり浸かった不思議な料理を満足そうに食べていた。
 う〜ん、やっぱり、こんな牛乳味の豚汁みたいなもの、フレンチじゃないぞ。
 それでも、うん、美味しかったから、文句は言わないでおこう。

 寮まで歩いて帰る時、妹がまた言った。
「ケーキ買っていいかな?」
 勿論、私の財布から・・・と言う意味。(笑
 ケーキは、「これがケーキ屋さん?」と思えるほど、普通の家っぽい店で売られていた。

 Y県は、神戸っ子には、カルチャーショック連続の土地だった。
 
 ・・・と書いても、いいかな?(笑

2012年1月20日金曜日

嗤う遺伝子

優れた遺伝子が発見された。 それは銀河系の辺境の惑星でのことだ。
 住人は、かつて地球から移民した人々の子孫。
 この星は公転周期が長くて、夏が20地球年、冬が40地球年。 余りに厳しい冬の為に植民政策が断念され、取り残された移民たちが、生き延びる為に自分たちの遺伝子を改造したのだ。
 紙やメモリー装置が限られていたために、彼等は自分たちの研究、発見、発明、歴史の全ての記録を遺伝子に刻んだ。
 即ち、この星の住人は全て生まれながらにして親の記憶を持っているのだ。
 彼等を再発見した人々は考えた。
「個人的な記憶は必要ない。しかし科学技術の記憶を生まれながらに持つことは、学習時間の節約になるではないか!」と。
 遺伝子を改造した記憶を参考にして、共同で研究が進められ、全人類の遺伝子に「学習節約遺伝情報」が組み込まれることになった。
 きっと、時間が有効に余ったら、人類は更に発展するだろう。
 誰もが期待した。

 しかし、一つだけ、忘れられていた遺伝情報があった。忘れられていたので、誰も思い出さなかった。
 それは・・・

「再び同胞と再会し、人類のオリジナルの遺伝子と接触したら(つまり婚姻によって子供ができたら)、この情報伝達遺伝子は役目を終わり、自動消滅すべし」

 全人類の遺伝子に無理矢理組み込まれた、この情報は・・・。

2012年1月19日木曜日

未完の大作

アイデアが湧き出るままに、創作に取りかかることがよくある。
 後から後から構想が沸いてきて、自分ではどうしようもなく、どんどん手が進む。
 かなり大量に出来上がったところで、突然、アイデアが涸れる。 どうしようもない、どんなに考えても、それ以上は何も出てこない。
 また、この作品は没なのか。
 完成されることもなく、世間に未発表のまま、朽ちていくだけなのだな・・・。




「ちょっと、誰よ、蜜柑で彫刻なんてしたのは??
 腐りかけているじゃない、さっさと棄てなさい!!!」

2012年1月17日火曜日

引っ越し蕎麦

小学校の時、実家が社宅から一戸建てのマイホームに引っ越しました。
貧乏だったのですが、会社も貧乏になって、社宅を売却するので出て欲しい、と言われ、両親が一大決心をした訳です。
今のような引っ越し屋さんは当時はなくて、荷物の運搬は近所に住んでいた私の友達のお父さんが職場のトラックで運んでくれました。(大工の棟梁でした。)

当時、住んでいた町には蕎麦屋がありませんでした。
うどん屋さんは数軒あって、蕎麦も扱っていましたが、実家の近くで出前してをしてくれる店は、中華料理店が一軒あるだけでした。

社宅には電話がなく、新しいマイホームに移ってから電話を引きました。
だから、引っ越し蕎麦は、電話で注文出来ませんでした。
母は父に中華料理店まで行ってその店で出前をしてもらうよう、言いつけました。(ほとんど命令です・爆笑)

母は、普通の中華蕎麦、つまり、叉焼、もやし、葱、鳴門が入ったラーメンを想定したのです。
ところが、店員が運んで来たのは、チャンポン麺でした。
笑顔でお代を払った後、母は恐い顔で父に言いました。

「どこの世界に引っ越し蕎麦にチャンポン頼むアホがおんねん?」

父は小さい声で口答えしました。

「そやかて、ワシ、チャンポン食いたかったんやもん・・・」

母は言い返しました。

「誰もあんたの好きなもん買え、言うてない!」

それでも、みんなでチャンポン麺を食べて、その場はそのまま終わりました。


後年、子供達が結婚して、それぞれの家族が実家に勢揃いした時、ちょっと高級な中華料理店に食事に行きました。
父は本当は隣の豚カツの名店に入りたかったのですが、神戸に里帰りしたら必ず中華料理を食べると決めていた妹一家に押し切られました。

みんなで前菜や肉料理や魚料理や、とコースみたいに注文して取り分けて食べたのですが、父一人だけ、ラーメンを注文して食べていました。

ええ、父は母には表だって反抗しなかったのですが、静かに抵抗する技術には長けていました。(笑 

2012年1月7日土曜日

貧乏旅行?

これは実話。

 Kさんは高校時代、休みになると友人二人と一緒にいつもバイクでツーリングを楽しんでいた。
 資金はアルバイトで稼ぎ、宿は出来るだけ安い場所、寝袋で眠れたら良し、として贅沢厳禁の質素な旅だった。
 一度などは、台風が近づいてきて、野宿が危険と思われたので屋根のある場所を求めて駐在所に行ったこともある。その時は、近くの学校の宿直に紹介され、学校で泊めてもらった。
 質実剛健、悪く言えば、貧乏旅行だった。

 ある時、それは東海地方の街の出来事だった。
 駅前にバイクを停めたKさんたちは、食事を摂ることにした。けれど、付近の飲食店に駐車場を持っていそうな店が見あたらなかったので、Kさんは、友人二人に先に食事を摂らせ、自分はその間バイクと荷物の番をすることにした。
 一人で地面に座っていると、ホームレスの小父さんが通りかかった。
「坊主、何してるんだ?」
「バイクの番してるんや」
 小父さんは3台のバイクを見た。
「友達は何処かへ行ってるのか?」
「うん、飯食いに行った」
「おまえは何で食べに行かないんだ?」
 そこで、Kさんの心に茶目っ気が生じた。
「僕は、金ないんや。だから、食べたくても食べられへんねん」
「友達は金持ってて、飯食べてるのか?」
「そうや」
「それは酷いなぁ」
 ホームレスの小父さんは服のポケットをがさごそと探って、百円玉を数枚出した。
「おっちゃんが金出してやるから、これでラーメンでも食ってこいや」
「え?!」
Kさんは驚いた。ホームレスの小父さんは、どう見てもKさんより裕福に見えない。失礼ながら、毎日食べる物を確保するのに苦労されている様に見えた。
 それなのに・・・。
「せやけど、おっちゃん・・・」
「早く行ってこい。バイクと荷物は儂が見張っててやるから。友達に見つかる前に戻って来いよ」
 断ると却って失礼な雰囲気だった。Kさんは小父さんからお金をもらい、近くのラーメン店に駆け込んだ。
 美味しいラーメンでお腹がふくれたKさんが駅前広場に戻ると、ホームレスの小父さんはまだそこにいて、Kさんを見てニコニコ笑った。
「どうだ、上手かったか?」
「うん、美味しかった。ご馳走様」
「おまえ、関西から来たのか?」
「うん。これから帰るとこ」
「気をつけて帰れよ。そうだ・・・」
 小父さんはまたポケットを探り、また小銭を出した。
「少ないけど、小遣いやろう」
「え?!」
「いいから、儂もたまには、若い者にこう言うこと、してみたいんだ」
 小父さんはKさんの手にお金を握らせ、「んじゃ、元気でな」と言って歩き去った。
 友達が戻って来た時、Kさんはご機嫌だった。
「何かあったんか?」
「別にぃ・・・」
「飯食ってこいや」
「ええねん、腹一杯やから」
「さっきは腹減った、て言うてたやんか」
「せやから、もうええねん」

 Kさんは今でも時々考える。

 あの小父さんにも息子がいたのかな・・・
 あの小父さんも旅をしていたのかな・・・