2015年3月13日金曜日

震災の思い出 7

震災の思い出 7

実は実家のそばの道路状況がよくわからなかったので、名谷のショッピングセンターの駐車場に車を置いてバスに乗りました。
垂水区では山陽バスが運行していました。
乗客は多くて、ほとんどの人がリュックサックを背負い、女性でスカート姿の人はいませんでした。
車窓から見える垂水の町は土埃で茶色に見えました。
自家用車は名谷周辺では走っていましたが、下(海に近い地区)へ近づくにつれて原付バイクが増えていきました。

実家は前述通り土台が傾いていましたが、母と寝たきりの祖父、認知症で何が起こっているのか理解出来ていない祖母の3人は無事でした。
父はこの時、単身赴任先の大阪府忠岡で神戸に帰る手段がつかずに職場にいました。母とは電話でなんとか連絡がついたのですが、大阪から垂水まで鉄道が使えず、代替バスがいつ運行開始したのか覚えていませんが、どうやって自宅へ帰れば良いのかわからなかったのです。


停電は解消され、上水道は断水していましたが、実家は何故か水が出ていました。
地理的な幸運で水道管の水が低い地区に流れ、祖父の家の風呂場の蛇口からポタポタ出ていたのです。
実家のある場所では井戸を持っている家が1軒だけあり、自治会長が井戸を使わせてくれるよう、その家に交渉しました。その家はケチで有名でしたが、時が時だけに承諾しました。
しかし母が「うちのお祖父さんのところで水が出ています」と告げると、近所の人たちがポリタンクを持って水汲みに来ました。
ポリタンク1箇1時間ほどかかったらしいのですが、それでもケチなお宅に頭下げるよりは、とやって来る人がいたのですね。
ガスは、不幸中の幸いと言うか、実家がある地区は都市ガスが来ておらず、全戸がプロパンを使っていました。地理的な条件と複雑な地権者の問題で神戸市が都市ガスを引けずに放置していたのです。
水洗トイレも各戸浄化槽設置の地区でしたから下水が地震でやられて使えない市街地に比べると問題はあまりなかったのです。

不便な地区が、この時ばかりは随分とその不便さ故に救われていました。

震災の思い出 6

震災の思い出 6

田井南の交差点で左折して県道65号線を走ります。
この頃には渋滞が始まっていてスピードが落ちました。
明石ゴルフ倶楽部の中を通る道ですが、当時はまだ狭くて場所によっては離合が困難な幅もありました。
ゴルフ倶楽部のゲートが開いていました。
門扉のそばに立て看板が置いてありました。
「温かいお食事あります。
お風呂も入れます。
どうぞお気軽にご利用下さい。」
そんな感じのことが書いてありました。
なんだかじーんときました。

65号線は現在52号線と立体交差になっていますが、当時は一旦52号線に入って少し南下してから福谷で左折し、もう一度65号線単独になります。
うねうねと蛇行した細い県道を自動車の列が連なっていました。

私の前にいたのは小型のトラックで荷台に木製の細長い木箱をいくつか立てて積んでいました。
ロッカーの様にも見えたのですが、ある時点で突然それが何なのか判明しました。
真新しい棺でした。
犠牲者の数が増えるにつれて棺の数が足りなくなったのでしょう。
どこかの遺体安置所に運んで行くところだったのです。
私はずっと棺の後をついて走っていたのです。

アスファルトには地割れが続いていました。
ぱっくり開いたままの箇所があり、大きくはないのですが渋滞で割れ目の上に停車しなければならないのは気持ちが悪いことで、みんな地割れに停まりそうになると前の車にぎりぎり寄せました。

自宅から実家まで、当時の道路事情では片道2時間だったのですが、その日は3時間かかりました。