2015年4月15日水曜日

震災の思い出 8

震災の思い出 8

実家が無事だったので、私は垂水中学入学以来の親友N子の家の様子を見に行くことにしました。
それを母に告げると、「ああ、早く行ってあげなさい。」と言ってくれました。
N子の家は海のそばの宮本町にありました。

私は再び山陽バスに乗って、下へ行きました。
街はますます土埃で茶色に霞んで見え、道路は4輪がいなくなり、2輪ばかりが走り回っていました。
バスの終点は、当時、寿司の増田屋の前だったのですが、近くの石垣が崩落したとかで、手前の神田町で降ろされました。

垂水の街は賑やかで、電車が止まっているにもかかわらず人が大勢いました。
多分、名谷や舞子あたりからバスが来るからでしょう。
宮本町へは、山電垂水駅とJR垂水駅西口のコンコースを抜けて2国を横断します。
そのコンコースに行くと、ちょっと異様な光景が目に入りました。


山電とJRの境目は階段があったのですが、その階段の上に当時、アンデルセンと言う製パン会社が販売専門の店舗を置いていました。
いつもは色とりどりの菓子パンがガラスの壁越しに見えたのですが、その時は全部食パンで壁が埋め尽くされ、正に小麦色の壁がコンコースの中央にそびえ立っていました。
店の入り口にはパンを買い求める人の行列が出来ていました。

後日、山口に住んでいる妹から聞いたのですが、アンデルセンの創業者は広島の人で原爆体験があり、会社を興した時に「戦争だろうと天災だろうと、大きな災 害が起これば食べる物に困る人が出てくる。煮炊きする状況ではないだろうから米のご飯は無理だ。袋を破ってすぐ食べることが出来るパンを被災者に提供出来 るように、工場にラインを二つ造り、災害発生と同時にラインを全て食パン専用に切り替える」と計画したそうです。
そして実際に兵庫県で甚大な被害が出る地震が発生したと聞くと、同社は直ちに生産ラインを食パン1本に切り替えたそうです。

交通がまだ全面復旧していない時に広島からパンを運んで来たのですね。

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