2015年2月8日日曜日

震災の思い出 3

震災の思い出 3

神戸に行く前に震災直後の西脇市のことを書きます。
我が家は揺れを感じただけでしたが、職場の人の家では屋根瓦が落ちたり壁に亀裂が入ったりと被害が出ました。
国道175号線はアスファルトに亀裂が入りました。
後に豊岡、村岡町などの但馬に行った時も路面に亀裂が入っていたり屋根にブルーシートが掛けてあったりしたので、神戸から遠く離れてなおあの激震は伝わっていたのだとわかりました。

職場の人の中には親族を亡くした人が何人かいました。
それから冗談みたいに聞こえますが、テレビで神戸の街が崩壊しているのを見てショックで亡くなった方もいました。

地震の影響は翌日から顕著に出て来ました。まず、新聞が来ません。
神戸新聞が薄っぺらな1枚だけの新聞を配達した時は涙が出ました。
雑誌も来ません。私はTIMEを当時購読していましたが、「救援の妨げにならないよう、兵庫県の読者の皆様には一月休刊することをお知らせします」と通知 が来ました。ですから、あの時TIMEの表紙になった瓦礫の中でうずくまる女性の写真、私はリアルでは見られませんでした。
ホームセンターやスーパーからポリタンクが消えました。
神戸や阪神間に親戚のある住民がこぞって買い求めたからです。
パン屋では行列が出来ました。
西脇の住民だけではなく、神戸や三木などから食糧を求めて買い出しに来ていたのです。
私がパン屋で並んでいると、誰かが「明日には小麦粉も入ってこなくなるんじゃないか」と言いだし、パン屋の主人が「アホなことを言うな! 丹波方面から輸送出来るやないか。みんなの不安を煽るようなことは言うたらあかん!」とたしなめました。
自治体や婦人会は毛布や衣類の提供を呼びかけ、消防団は瓦礫撤去と救出の手伝いに神戸へ出かけて行きました。
 
空では毎日ヘリコプターが飛んでいました。
初めは消防のヘリかマスコミの取材ヘリか、それとも自衛隊の救助隊か、と思っていたのですが、そのうち「あれは神戸近辺の火葬場がいっぱいなので地方へ遺体を運んでいるんや」と言う噂が流れました。

毎日いつもと同じ生活をしていても非日常的でした。

0 件のコメント:

コメントを投稿

コメントを有り難うございます。spam防止の為に、確認後公開させて頂きますので、暫くお待ち下さい。
Thank you for your comment. We can read your comment after my checking.