2012年9月16日日曜日

ナオミさん

「マスター、もう一杯!」
陽気な客の声が響いた。ヒロシはグラスにビールを注ごうとして、手を止めた。店の入り口そばに、ナオミが立っているのが見えたのだ。
彼は客に言った。
「今夜はそこで控えた方がいいですよ。それより、そのお料理、ちゃんと召し上がって下さいよ。」
「え~、ちゃんと食べるよ、だから、もう一杯だけ・・・」
しかし、客の連れが、やはりちらりとヒロシの視線を追いかけて、仲間に忠告した。
「止めておけよ。歩けなくなったら、困るだろ?」

半時間後、いい具合に出来上がった客たちがお勘定を済ませた。
ビールの追加を断られた客が、ヒロシに囁いた。
「マスター、今日のナオミさんは、怒ってた?」
「いいえ。」
ヒロシは柔らかな笑顔で答えた。
「穏やかな顔でこっちを見ていただけですよ。」
「そっか! じゃ、今夜は無事に帰れるな。」
客はホッとした表情で出て行った。

ヒロシは最後の客が出て行った店内の掃除をしながら、出窓の小瓶に差したバラを見た。
アルバイト従業員のタカシが外の立て看板とメニューボードを片付けている。
タカシが出所して半年たった。
あれから彼は一滴も酒を飲んでいない。
毎日小瓶に水を足し、花がしおれると取り替えるのは、タカシの仕事だ。
それは、タカシの反省であり、二度と過ちを繰り返さないと言う決意表明でもある。
タカシとナオミ、お似合いのカップルだった。タカシが飲酒して、ナオミが彼の運転を止めるのを怠るまで。
タカシのクルマがスピード超過で川へ転落し、ナオミが逃げ遅れ・・・。
タカシは交通刑務所で刑期を務め、ナオミはこの町の飲食店、至る所に出没した。飲酒する客が度を過ぎたり、ドライバーだったりするとそばに立っている。それだけだ。だけど、見える人には抑止力を発揮するのに十分だった。

ナオミは、タカシを恨んでいるのではない、とヒロシは理解している。
彼女は自分が許せないのだ。
彼女が成仏出来るのは、この町から飲酒運転のクルマがいなくなる時だろう。
それまで彼女は彷徨い続ける。
ドライバーたち全員が節度を守る迄。

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