2013年1月1日火曜日

翡翠色の

「どちらから来られたんですか?」
「大阪です。」

 クルマに乗り込もうとした時だった。彼女が話しかけてきた。
 まただ!

「どちらへ行かれるんですか?」
「上(かみ)の方へです。」

 地元の作業員に教わった通りに答える。決して「下(しも)」と答えてはいけない。

「お一人ですか?」
「仲間と一緒です。」

 一人なのだが、仲間が待っているふりをする。一人だと答えれば、どうするつもりなのだろう?と思いつつも、地元民の忠告を無視したりしない。

「私も行っていいですか?」

 ここでうっかり「はい」とか「いいえ」と答えてはいけない。どちらの返答も彼女は気に入らないのだから。明確な返答をしてはいけない。
振り返らずに答える。

「上へ行くのですよ。」

 彼女は黙り込む。想定外の返事だからだ。どう対処して良いのかわからなくなる。
 毎日、同じ質問をして、同じ返答をもらうのに、対処出来ない。
 その間にクルマに乗り込み、ドアを閉じる。エンジンをかける間も、そちらを見ないように気を付ける。見たいと言う誘惑が心に生じるが、負けてはいけない。
 エンジンがかかってクルマが走り出すと、ホッとする。彼女の声はもう聞こえないし、彼女も話しかけてこないから。
 クルマはヘアピンカーブを順調に走り、坂を上り、峠にさしかかる。そこでやっと見下ろすことが出来る。

 翡翠色の湖。

 自然石が川をせき止めてできた天然のダム湖だ。近年、その石がもろくなり、崩壊の危険性が出てきた為、それに先だって人工的に崩して、水を解放し、下流を水害から守ることに決まった。
 石のどこにダイナマイトを仕掛けるか、調査していたら、夕刻になって彼女が話しかけてきた。
 地元民から、既に忠告を受けていた。

あれは、翡翠色の水が話しかけてくるのだ、と。
決して、「下へ行く」と言ってはならない。上へ行きなさい。水は上がって来られないのだから。

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