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2015年6月18日木曜日

ちどりや


多分、「千鳥屋」と漢字で書いていたのだと思いますが、私の記憶の中では漢字の看板はないのです。
垂水区の県道、垂水東口から名谷に行くバス道の山側に、石垣やコンクリートの壁が続くところがあります。
「クラブ前」と「千鳥が丘下」のバス停の間の区間です。
この壁と言うか、元は崖だったのかも知れませんが、そこにガレージみたいに穴を開けた様な店舗がありました。
駄菓子、パン、アイスクリーム などの店、と私は認識していましたが、今思い出してみれば魚の干物や豆腐やちょっとした調味料なども置いていたみたいです。
狭い店で、おばちゃんが一人で店番をしていました。
客の多くは子供だったと思いますが、駄菓子屋ではありませんでした。
我が家はこの店で食パンを買い、子供がお手伝いをするとご褒美にアイスを買ってもらえる店でした。
夜はシャッターを下ろしていたと思います。
店の前は県道で年々交通量が増えて危険になり、小学校では「歩道のない道は通ってはいけません」と指導していましたから、「ちどりや」にとって辛い時代になっていったことでしょう。


小学校の3年生の頃でしたか、福田側の東側に「川原センター」と言う商店街のミニ版が出来ました。
垂水の廉売市場よりは貧相な、でも店舗が数軒並んだ、住宅街では画期的な場所です。
「ちどりや」は、それを機会に閉店しました。
「これからは川原センターでお買い物して下さい」と言う意味の貼り紙がしてあったそうです。
千鳥が丘や福田町から川原センターは遠いので、私達は大いに不満でしたが、店の決心は固かったのです。
もしかすると、おばちゃんはもうお歳で、新しい店に対抗する気力がなかったのかも知れません。

「ちどりや」は、私が初めてお金を握りしめて自分でお買い物をしたお店でした。

2013年7月5日金曜日

中国のツボ

昔、南京町は人通りが少なくて、路面は穴ぼこだらけで、すぐそばの鯉川筋や元町商店街とは対照的な場所だった。

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母が勤めていた会社に、シンガポール帰りの奥さんが仲間に加わった。
母はすぐ仲良くなって、新入りさんは、お土産に、「これ、よく効くのよ」と言って、虎の絵が描かれたラベルの小瓶をくれた。中身は匂いのきつい軟膏で、母の肩凝りに効いた。

 薬は一月ほどでなくなり、母は自分で買うことにした。薬には中国語の説明しか付いていないので、名前がわからない。
「どこで買えると思う?」
と訊かれて、私は
「多分、南京町で」
と答えた。二人で出かけた。

 南京町は今ほどには観光客もいなくて、平日の昼間は閑散としていた。

 私たちは、一番大きな商行に入った。地下が中華食材売り場、地上が雑貨と漢方の材料の店だった。
ざっと眺めて歩いたが、珍しい物ばかりで、肝心の薬は見あたらなかった。
 母はカウンターに行き、店番の男性に薬の空瓶を出して見せた。
「これが欲しいんですけど」
「ああ、虎ですね」
店の人はあっさりと応え、カウンターの下から同じ瓶を取り出した。
 母は喜んで二つ買った。

 軟膏は日持ちするので、使い切る迄時間がかかった。 
 数ヶ月後、母は今度は独りで件の商行へ出かけた。
 男性は母を覚えていて、ニコニコと微笑んで迎えた。
「お客さん、良かったね」
「?」
 怪訝な顔の母に彼は言った。

「これから、大っぴらに買えますよ。 

 やっと輸入の許可が下りたんです。」

2013年3月24日日曜日

垂水廉売市場の思い出

母がお気に入りの八百屋があった。

おばちゃんと息子夫婦で商売していた。おじちゃんは、よく浮気したり二日酔いで寝ていた。仕事をする時は大量に買った客の家に商品を配達する仕事をしていた。
店を切り盛りしていたのは、当然おばちゃんで、客とお喋りしておまけを付けたり、値引きするのもおばちゃんの権限だった。
八百屋と言っても果物も売っていた。
野菜も、痛んでいるところとかあれば、おばちゃんが客の目の前で葉っぱをむしったり、奇麗なものと取り替えたりしてくれた。

あのお店、まだあるだろうか?

http://www.kobe-c.ed.jp/cdo-es/gakunen/17/3nen/3nen-2.htm

2013年3月9日土曜日

包み紙 

包み紙を捨てられないで、到来物の紙は、出来るだけ破らないように広げ、皺を伸ばして丁寧にたたみ、棚にしまい込む。それがどんどん溜まって、棚がいっぱいになって、隣の棚にも進出して来た。
綺麗な花柄の紙や、上品なデパートの包装紙、楽しいケーキ屋さんのラッピングペーパー。それが、宝物だったのだ。
 彼は、祖母がいなくなった家の中を見回した。金目の物はせいぜい仏壇の下にしまい込まれた高価な仏具程度で、そんなもの、古道具屋しか引き取ってくれないだろう。
「包み紙なんか溜めないで、お金を貯めてくれれば良かったのに。」
彼はため息をついた。
家を解体するなら、壁や柱ごと潰していまいましい紙を捨て去るのだが、まだ建物は綺麗だし、交通の便の良い場所にあるので、貸して欲しいと言う人がいて、解体費を使うよりは、家賃をもらう方がましなので、掃除をしなければならない。
 祖母はこぎれいに住まいしていたので、家は綺麗だった。台所も寝室も片づいていたし、仏間もすっきりしていたし、浴室はちゃんと換気されていた。トイレも清潔だ。不動産業を営む友人の鑑定では、中古物件として良質で、月に7万円の家賃でも安い方だと言う。
 家具や食器は既に運び出し、後は作りつけの棚にぎっしり押し込まれた包み紙の始末を残すのみとなっていた。
「どうすんの、これ?」
手伝いの友達が呆れていた。
「新聞紙や段ボールならリサイクルで引き取ってもらえるけど、包装紙だろ? 捨てるしかないんじゃない?」
「焼いちゃえば?」
「駄目だよ、ダイオキシンとかなんとかで、苦情がくるよ。」
「面倒だね。取りあえず、外に出そうよ。」
三人で紙を出して紐で縛る。それを10数回繰り返した。
「すごい執念だね、ここまで集めるなんて。」
「うん、我が祖母ちゃんながら、鬼気迫るものを感じるよ。」
包装紙の山が18個もできた。
塗装工をしている友人が、ガレージの隅に置かせてくれると言うので、預けた。

 その夜、塗装工の友人から電話がかかってきた。大変なものを見つけたので大至急来い、と言う。昼間の労働でくたくただったが、彼は出かけた。
友人はガレージのシャッターを閉じてから、見つけたものを見せてくれた。
それは古い聖徳太子の一万円札の束だった。
「なに、これ?」
「おまえの祖母ちゃんの遺産だよ。」
「え?!」
友人の説明によると、彼の妹がちょっと物を包む物を探して、預かり物の包装紙の束をめくっていたら、一枚のお札が出てきた。もしやと思い、その束をほどくと、どの紙にも一枚ずつお札がはさんであった。
「これ、一束で50万あった。全部で18個だよな?」
彼は友人の言葉を震えながら聞いていた。
祖母の遺産は、紙だった。包装紙とその間のお札。
「なぁ、一割あげるから、全部ほどくの、手伝ってくれないか?」
「一割ももらっちゃ、悪いよ。いくらになると思うんだ? もし全部にお金が入っていたら、一千万近くになるぜ。」
「だけど、落とし物の謝礼くらいはしなきゃ・・・」
友人はほがらかに笑った。
「それは、取らぬ狸の皮算用。先にお金を探そう。それから決めようや。大した労働じゃなかったら、飯を一回おごってくれりゃいいさ。」
一晩かかって、967万円が出てきた。彼は友人に、50万円の謝礼を申し入れ、友人もそれを快く受けた。
「だけど、おまえ、俺がおまえに電話する前にいくらかポッポに入れたなんて、疑わなかったの?」
「入れたの?」
「まさか!」
「だろ? おまえを信用してるよ。」
彼は、一枚の紙を自分のポケットに入れた。
それは、10番目の束の中で見つけた、祖母の手書きの覚え書きだった。変色して黄色くなった紙に茶色になったインクの文字が、こう言っていた。


これを見つける人が私の相続人以外の人であり、その人が私の相続人に正直にお金を渡してくれたなら、私は子孫に信頼と言うものを相続させることが出来ると思うのです。 

2013年1月29日火曜日

時の流れに

毎日の通勤路で見かけた古いお社。
どんどん朽ちていく。
屋根は落ちかけ、壁は崩れ、塀はもうない。境内は草茫々。
なんだか神様が気の毒で、ある休日、友達と一緒に掃除をした。
僕らにとっては、ちょっとしたリクリエーションを兼ねた奉仕活動のつもりだった。
崩れた箇所はどうしようもないけれど、なんとか綺麗になって、夕方、僕らは満足して帰った。
ところが、翌日、出勤の時、そこを通りかかると、何故か既に草茫々。
僕は呆然。
それから毎週意地になって掃除したが、次の日には元通り。
これは、神様の仕業なのか、それとも悪魔?

年末、半壊しかけたお社に注連縄がはられていた。
誰だろう?
とうとう僕は正月の朝早く、その神社に張り込んでしまった。
現れたのは、町内会の年寄り連中。
彼らが注連縄を張ったのだ。
でも、どうして普段はほったらかしに?
僕の疑問に彼らは答えた。

「ここの神様が、もうええ、ってゆうたはるんや。」

「人々の信仰が他所に行ってしもうた。せやから、神様、もうここから消える、ゆうたはるんや。」

「あんたも、神様の心、大事にして、そのままにしといてあげなはれ。古い物を大事にする、その心がけだけは大切にしてな。」

2013年1月27日日曜日

電話帳登録

 麻美の携帯電話には、城山の番号が登録されている。僕がそれを知ったのは、去年のクリスマス。訝しむ僕に彼女は言い訳した。
「仕事で躓いた時、いつでも助けてもらっていたから、お守り代わりなの。」
 城山には僕も随分助けられた。だけど、もし城山がまだ生きていたら、僕はあまりいい気分がしなかっただろう。婚約者が携帯に僕以外の男の番号を 登録していたってかまやしないけど、城山は彼女の元カレだったからな。亡くなってしまったし、僕の親友でもあったから、僕は気にしないことにしていた。僕 はあいつと麻美を張り合った訳じゃない。あいつがいなくなってからお互いに接近したんだ。あいつがいなくなった穴を埋めたくて言葉を交わすうちに。
 今日の仕事に出る時、ドジなことに僕の携帯は電池切れだった。充電器にセットするのを忘れていたんだ。だから、麻美が自分のを貸してくれた。彼女も職場が同じだから、必要な同僚や上司の番号が入っている。機種も同じだから操作に迷うこともない。それに
「城山君が守ってくれるから」
麻美は祈るような目で僕を見つめながら渡してくれた。

 昼前から降り出した雨は1時間もたたないうちに集中豪雨と化し、河川はたちまち警戒水位を超えた。大川の中州に取り残された人々の救出に当たっ た僕らは雨と風と闘った。強風の為にヘリが飛ばさないので、ロープを撃ち込んで中州と岸辺をつなぎ、釣り人たちを一人ずつ抱えて流れを横断した。
最初に救出に当たった僕は、最後の仲間が戻って来るのを岸辺で待っていた。
 風の中で携帯の呼び出し音が聞こえた。任務遂行中に誰だ? マナーモードにしていたはずだが?
 切るつもりで開くと、画面に発信者の名前が出ていた。目にするなり、ギョッとなった。

城山

 悪い冗談だ。僕は通話ボタンを押した。

「大木」

 城山の声がした。僕は自分の耳が信じられなかった。切ろうとした時、城山の声に似たヤツが言った。

「土石流が来る。最後の救出が終わったら、即刻岸辺から遠ざかれ。国道まで上がるんだ!」

 僕は雨で視界の効かない上流を見た。山がふくれている様に見えた。
僕は叫んだ。

「すぐに国道まで走れ! ここは危険だぞ!!」

 僕らが全員国道のアスファルトの上にたどり着いた時、轟音が響いた。
山が抜けた。

 着信記録には、城山の番号がしっかり残っていた。だが、あれからリダイヤルしても、「お客様がおかけになった番号は現在使われておりません」とメッセージが流れるだけだった。
 だが、僕も麻美も、信じている。あれは、確かに城山がかけて来たんだ。
石切場の土砂崩れのレスキューに行き、二次災害で遭難した僕らの城山が。

2013年1月20日日曜日

遠い雷鳴

 珠子は雷が嫌いだった。ただ嫌いではない。ピカッと光ったら、もう一歩も動けなくなる。幼なじみで夫の太郎は、きっと小さい頃、遊んでいた公園の木に落雷したのを、目の前で見たからだろうと思った。
 小学校でも中学校でも、珠子は雷が鳴ると硬直してしまった。それはもう教師の間でもすっかり有名になって、雷が鳴ると珠子は特別に扱われた。つ まり、教科書の音読を免除されたし、体育も見学だ。級友たちも知っていたから、からかうけれど、やっかみはしなかった。珠子は、雷がなければ闊達で面倒見 の良い友達だったから。
 高校も大学も雷なしで過ごせなかったけど、なんなくやり過ごした。会社勤めの時は、さすがに辛かったらしい。社会人には、雷なんてなんてことないと考えられていたから。
だから、太郎は彼女を守るために早々に結婚した。
 母親になると、珠子は子供の為に必死で恐怖と戦い、耐えた。土砂降りで雷が暴れる日も、傘を持って子供を迎えに走った。太郎も彼女の努力を評価し、しかし歳月とともに彼女は雷に平気なんだと思うようになった。
 孫が出来て、もう人生もおおかた過ごした頃、珠子は故郷の墓参りに行った。仕事で同行出来なかった太郎は、今でも彼女を一人で旅立たせたことを後悔している。
 そう、彼女は一人で旅立った。

 墓地で夕立に遭い、雨宿りした立木に落雷して、亡くなったのだ。

「うちのヤツは、きっと生まれた時から、自分がどうやってあの世に行くのか、知ってたんだと思いますよ。」

 蝉時雨の暑い夏の午後、太郎は縁側で冷たい麦茶を勧めてくれながら、そう言って寂しそうに笑った。
真っ青な空の端っこには、白い入道雲がもくもくとわき出てくるところで、そのうち夕立がくるだろう。
珠子が逝って三回目のお盆だった。

2013年1月4日金曜日

地球防衛軍・自称

我等が地球はエイリアンに占領されようとしている。
彼らはGWが終わった頃から突然我らが領土を侵略し始めた。
とにかく、目のつく所、至る場所に彼らははいずり回っている。
即刻撃退せねばならん。
ハヤタ隊員、君は至急、薬局に行き、迎撃薬品を購入するのだ!
諸星君、君は割り箸でもなんでも良い、早急に連中を確保し、塩漬けにせよ!
私か? 私は傍観している。近づくのもイヤだからな。
健闘を祈る!!



課長・・・ずるいですよ、いくらナメクジが嫌いだからって・・・。

2012年12月8日土曜日

小さなギリシア

「折角神戸の大学にいるんだから、世界の料理食べないと、損だと思わないか?」
と栗山先輩が言った。小田先輩がニヤニヤしながら、
「世界中を歩き回った男が、今更何を言うか」
と突っ込んだが、結局教授も巻き込んで一回生から四回生まで研究会の会員10名に留学生二名、部屋のメンバー全員で神戸で唯一軒のギリシア料理店に出かけた。

 名前を「ギリシア村 Greek Village」と言った。 船乗りだったギリシア人のオーナーが、陸に上がって開いた店。常夜灯の様な赤暗い照明に、テーブルの蝋燭の灯りが、古いビルの中だと言うことを暫し忘れさせた。入り口のクロークで持ち物一切を預ける。
 Tシャツにジーパン、どた靴の貧乏学生の団体に、白人のウェイターが頭を下げた。店員は全員白人だった。本物のギリシア人なのかどうか、詮索する客はいなかった。

 料理は、前菜からして物凄い量だった。正直、前菜で満腹してしまったが、生まれて初めてのフルコースだったので、意地で食べた。テーブルマナーは隣のエレーナを見よう見まねで・・・。
教授がブラジル旅行でアマゾンの洪水に遭遇した話をしていた。しかし、こちらは、食べるのに精一杯で、感想を述べる余裕はない。教授のお相手は先輩に任せた。
 前菜の後はスープ(フレンチの様な上品な量ではない!)、魚、サラダ、と続く。テーブル中央の大きな篭にはパンが山盛り。好きなだけ喰え! と言う訳だ。
 メインディッシュは、巨大な鉄鍋で煮込んだトマト味の牛肉の固まり。鍋のままテーブルにドンと置かれて、ウェイターが取り分けてくれた。
 そんなに要らないよ、言いたいが、美味しいので食べてしまう。
「最後はデザート」
「何かな?もう入らないよ」
「大丈夫、アイスクリームよ。こんなに食べたんだもの」
 エレーナの楽観は見事に外れ、分厚く幅広いシナモン風味のナッツパイがどっしりと皿に鎮座して運ばれてきた。街のケーキ屋さんのショートケーキ2個分はあったかな?

 これだけ食べて3000円だった。帰りは、喫茶店に立ち寄ったが、もうレモンティーしか入らなかった。
(なぜ、みんなパフェやらチーズケーキやら注文出来るの?)

 後日、友人と二人でお昼を食べに行った。日本人客は私たちだけで、あとは全員白人だった。ギターを弾いている客もいた。 そこは、確かにギリシア的空間だった。店から一歩出れば、日本人がうようよ歩いている商店街だったが、店内の空気は別物に感じられた。

 テレビでも紹介され、旅行ガイドブックやグルメ本にも載ったその店は、いつのまにか消えた。 ひっそりと。
店があった場所はその後次々と持ち主が変わり、やがて震災でビルは倒壊し、更地になった。


「わたしたちは元気です」
 震災後、暫くして目にした新聞広告だ。出したのは、老舗のレストランのオーナーたち連名。 今まで敷居が高かった名店が、材料の確保も熱源確保も困難な期間に炊き出しで市民を励ました。
「○○のお粥が無料だって!」
「XXのスープ配給?!」
 世界の味の炊き出しだった。 しかし、ギリシアの味はなかった。

オーナーはギリシアに帰ったのだろうか。 兎に角、あの悲劇を体験せずに店を閉めてくれたことが、ファンにとっては慰めだ。
 震災で多くの老舗が被害を受けた。立ち直れなかった店も多い。今新しい名所が次々と紹介されているが、その店が”本物”になれるには、もっと時間が必要だろう。そこへ行けば、何か特別なことがあると思える店。

2012年11月15日木曜日

塔のある家



 幼い頃、いつも遊んでいた林の木立の向こうに、塔が見えていた。
絵本の中でお姫様が住んでいるお城の塔によく似ていた。
友達は塔の存在に気がついていない様子で、自分の秘密の風景だった。
林の向こうのお城。きっとお姫様が住んでいるに違いない。ずっと信じていた。
 小学校に上がり、学年も上がっていくと、行動範囲も広がって行った。
新しい友達の家を訪問した帰り道、ふと見上げると、あの塔が見えた。
心底驚いたものだ。何故なら、入学してから、あの林で遊ぶことがなくなり、林が住宅地になって、すっかり塔の風景を忘れていたからだ。
それが、いきなり目の前に実物がど~んと現れた。

 細い坂道が大通りから丘の斜面を登っていた。所々階段になっているが、中途半端な高さの段で、道の半分しかない。半分階段で半分スロープの坂道だった。その細い道がカーブして手前の民家の後ろに消えていく、反対側の塀の中に、塔の家は建っていた。
 ツタがからまる土塀の向こうに低木の茂み、鉄門の扉から狭い石畳の道が玄関まで延びている。その家は、びっくりしたことに、日本家屋だった。瓦葺きで、玄関はガラスがはまった格子の引き戸、縁側がある和室。黒い焼き板の壁。
 それなのに、階段の坂道に面した部分だけが、洋風の造りになっていた。
塔の形に張り出した二階建ての、一階は出窓、二階が、林を通して見えていた丸窓で、屋根も円錐形の鱗瓦だった。
 この家はなんなのだろう。特別な人が住んでいるようにも見えなかった。ひどく古くて、住人は現状維持が精一杯なのか、手入れはされているものの、どこにも新しい物はなかった。ペンキは剥げていたし、庭木も剪定を長い間しえちない様子。
 ツタも壁をびっしり覆って、あれでは湿気がもの凄いだろうと想像された。
 夕暮れが迫っていたせいか、怖い感じがして、それ以上観察するのがはばかられ、大通りに戻った。坂道を下りきった時に振り返ると、塔の二階の丸窓で、カーテンが揺れた様に見えた。
 誰かが見ていた?

 その夜、夢を見た。白いドレスを着たお姫様が塔の窓から手を振っていた。
「覚えてくれていて、ありがとう」
と彼女は言ったと思う。ツタは青々として、庭にはピンクや白や赤の薔薇が咲き乱れていた。日本家屋の焼き板壁もまだ真っ黒で、瓦も輝いていた。
お姫様は、きっと伯爵家のお嬢様なんだ、と何故か思った。

 その家は、就職して街を出るまで、ずっとそこにあった。それから戦争があり、水害があり、地震が起きて、台風が暴れ、火事とか、バブルで土地が買い漁られ、邸宅街がマンションに変身したりして、街の様子がすっかり変わってしまった。
 正月に、曾孫がパソコンとやらで、街を空から見られるものを見せてくれた。グルグルなんとかと言うらしい。
 塔の家があった所は・・・


 緑の木立の中に、一軒の家が建っていた。半分和風で、半分、洋風の・・・


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実際のところ、子供の頃に憧れていた家の思い出を元ネタに書いてみました。
グーグルアースで探してみたら、それらしい画像がありましたが、塔は確認出来ませんでした。
神戸市垂水区高丸・・・丁目 ○○番地 までわかりましたが・・・。

2012年9月16日日曜日

田圃の秘密

子供の頃、田植えが始まる前の、代掻きをする前、蓮華畑になっている田圃で走り回って遊んだものだ。
代掻きが終わって田植えが行われる前の日、男の子達が「合戦ごっこ」をしようと言い出した。
誰かが、子供向きに編集された「太閤記」を読んで、墨俣城の建築のくだりで、泥の川で秀吉側の野武士と美濃の軍勢の合戦を再現したくなったのだ。
田植えが始まったら、もう泥田では遊べないから、チャンスは今日しかないのだ、とその友達が主張し、学校が終わると、クラスの男子は全員田圃の畦道に集合した。
刀の代わりに竹の棒を持つ。ルールは簡単、絶対に「突かない」こと。「顔を狙わない」こと。「首から上は叩かない」こと。「肩か背中に泥が付いたら、斬られたことにして田圃から出る」こと。
グッパで二手に分かれて、田圃の両側から号令と共に泥の中に跳び込んだ。
竹の棒と言っても、どれも古くて繊維が見えるくらいくたびれているから、叩かれてもそんなに痛くない。
あちらこちらで、パンパン、バシバシ、と音が響き、バチャッと泥に倒れ込む音がする。
田圃の泥は温かくて柔らかい。大人が見たら怒るだろうが、そんなことは後の心配で、みんな夢中で初夏の前日を楽しんだ。
僕は敵陣の中に勇敢に切り込んで、敵将たる学級委員のお尻に泥を付け損ない、急いで退却しようとした。
突然、脚が何かに引っかかって、僕は顔から泥の中に倒れ込んだ。
ちぇっ! 自損事故だ。
僕は脚を引き抜こうとしたが、何故か動かない。そんなに泥は深くないはずだが・・・僕は足首に何かが絡まっている感触を覚え、視線を向けた。
泥だらけの手が僕の足首をがっしりとつかんでいた。僕は、その手が、泥の中から生えていることに気がついた。友達は合戦ごっこに夢中で、僕のそばに倒れているヤツはいなかった。
この手は誰の?
僕は恐怖に駆られ、夢中で竹棒で泥の面を叩いた。
手が離れ、僕は田圃から死にものぐるいで這い上がった。

この話は誰にも言っていない。
言っても笑われるだけだ。
そして、大人になってからも僕は泥田には入らない。
僕が農家を継がずに都会に出て会社勤めをしているのは、実はそう言う理由からなんだ・・・

2012年9月9日日曜日

筍泥棒

竹藪で・・・

女性「そこで何をしてはるんですか?」

男性「筍採ってまんねん。」

女性「そやかて、ここはうちの竹藪でっせ。」

男性「せやけど、儂、新鮮な筍食べたかったんや。」

女性「食べたかった言うても・・・他人の竹藪でっせ。」

男性「せやって、筍ぎょうさんあるやないか。あんた、これ、全部食べるんか?」

女性「そんなん食べられませんわ。」

男性「あんたの家族全員でも食べられへんやろ?」

女性「そりゃ・・・食べられへんけど・・・」

男性「筍は、採ったその日に食べんと鮮度落ちるんや。」

女性「そうですわなぁ・・・」

男性「せやから、儂が食べんといかんねん。ほったらかしにしたら、今日の筍、明日はもう食べられへんやろ? めちゃもったいないやんか!」

女性「そうやね・・・」

男性「せやから、これ、儂がもらうんや。ほれ、見てみぃ! この見事な筍、店で買ったら一本900円はするでぇ。」

女性「すごいねぇ!」

男性「あんた、ええのいっぱい生えてるから、早よ採りや。 儂、急ぐよって、もうおいとまするわ。ほななーーー!!」

2011年11月23日水曜日

手の中のもの

「これ、さぁ」

 ヒロトが、両手で何かを包み込むような形で、チカさんの前に両腕を伸ばしてきた。

 羽布団工場の午後の休憩時間だった。
ヒロトは17歳、二月前からこの工場でバイトしている。高校には行ってなくて、同じ年頃の仲間と連んで暴走族をやっているのだ。だけど、何を思ったか、ここへ仲間と一緒にやってきて羽根まみれになって働いている。
  少年たちの中では一番の男前。背が高く、喧嘩も強くて、族のリーダー格だ。彼が真面目に働くと、仲間も大人しく仕事している。大人を拒絶している様な仲間 たちと違って、ヒロトはパートの小母さん小父さんたちとも冗談を交わすし、世間話もした。なんで、あんないい子が、族なんかやってるんだろ?と大人たちは 不思議がった。

 チカは工場一番の美人だけど、ヒロトよりは10歳も年上。ちゃんと彼氏もいる。だけど、ヒロトは時々彼女に悪戯をしかけてくる。ちょっと気になる存在らしい。
「え? なに? なに?」
 差し出された手を、チカは覗き込んだ。ヒロトが、そっと手を開いた。
 真っ白な物が、ポワ〜ンと飛び出した。

「きゃ〜〜〜〜!」

 チカが悲鳴を上げて、跳び下がった。 ヒロトは「あはは」と笑いながら、手の中の物を床に払い落とした。
 柔らかな羽根がふわふわと舞った。
 布団に詰め込まれる純白のダウンが、彼の手の中で圧縮されていた。それが、手を開いたので、空気を吸い込んでふくらんだだけだった。チカは、見慣れたはずの商売物が、何か別の生き物に見えたのだ。

 知っていると思いこんでいたものが、ちょっとしたことで違う物に見える。錯覚なのか、それが真の姿なのか、それは見る人自身が決めること。

 少年たちは、やがて一人が無断で辞めたのをきっかけに順番にいなくなって行った。ヒロトは最後まで残ったけれど、やはり無断欠勤が増えて、お盆明けにはとうとう来なくなった。

 一度だけ、「なんで、あの連中と連んでるの?」とヒロトに訊いてみた。
 彼はこう答えた。

「見ててやらなきゃいけないんだよ」

2011年9月24日土曜日

逮夜

和尚さんは逮夜には少しうんざりしていた。お経を読むのは僧侶の仕事だし、義務だから当然だとしても、法要の後の習慣と言うのが、はなはだしんどいものだった。
和尚さんの寺がある地域では、逮夜には食事が出る。遺族と親類、時には友人や近所の人も加わって、法要が終わった後で、和尚さんを囲んでご飯を食べるのだ。
この地域の逮夜は初七日から四十九日までの間、七日毎に行われるから、一軒の家でお葬式を出すと、和尚さんは4回逮夜に呼ばれる。
遺族はご馳走を準備してる。法要なのだからそんなに贅沢しなくても、と和尚さんは内心思っているが、遺族はもてなすのが故人への供養だと信じているから、黙っている。
困るのは、毎回出される料理が寿司や会席料理だと言うことだ。狭い田舎町だから、仕出し屋は同じ店だし、短期間にお葬式が集中してしまったりすると、毎日逮夜だったりして、毎日同じ味の同じ料理を別々の檀家で出される。
正直なところ、和尚さんは食傷気味だった。
Y家の当主が亡くなった。長患いして苦しんでいたので、亡くなって家族がホッとしているのが雰囲気でわかった。
逮夜に呼ばれた。一逮夜目は定番の寿司だった。和尚さんは申し訳ないと思いつつ、残してしまった。
二逮夜目は懐石料理で、これも残した。
三回目。玄関で、「あれ?」と思った。トマトソースの匂いが漂っていたからだ。ニンニクの匂いもしたし、タマネギを炒める香りもした。和尚さんはなんだか落ち着かなくなり、お経を大急ぎで読んだ。(ばれたかな?)
お料理は、トマトソースに鶏肉を煮込んだパスタだった。
逮夜にパスタを出す家なんて初めてだった。和尚さんは美味しかったので夢中で食べてしまった。若主人に訊けば、彼の奥さんが作ったのだと言う。
「和尚さん、いつも残しておられるから、お袋が気に病んで、僕の嫁さんに台所仕事を押しつけたんですよ」
と若主人が笑いながら言った。
「僕も寿司よりこっちの方がいいや」
帰り際、家族全員が玄関に見送りに出てきた。
「ご馳走様でした。スパゲティ、美味しかったです」
和尚さんは思わず正直に挨拶してしまった。奥さんが照れ笑いして、大奥さんは苦笑いした。
それからも和尚さんはあちらこちらの家に呼ばれて行くが、あれからパスタを出してくれる家には一度も遭遇していない。

2011年9月5日月曜日

凧揚げ

タレントの家を紹介する番組で、ゲイラカイトを持っている人が出てきて、他のタレントたちから「古!」と言われていた。
かつて日本中の空を占領して、古来の紙凧を駆逐した三角形のビニル凧はどこへ行ってしまったのだろう?

小学校時代、冬休みの注意事項に「電線のあるところでは凧揚げをしてはいけません」と書かれていた。電線のない所なんて、神戸市内にないやんか。
と言う訳で、神戸で凧揚げをした記憶はないし、揚げている子供を見たこともなかった。

凧揚げは、母の郷里である和歌山のM町に帰省した時にしたのだった。
孫たちが集まって室内遊びに飽き始めた頃に、祖父とか伯父が「凧揚げでもせんの?」と言い、私たちを引き連れて近所のオモチャ屋へ行った。
竹の枠に紙を貼り付けた凧が売られていて、一人ずつ買ってもらった。幾らしたのか、知らない。そんなに高くなかったのだろう。
オーソドックスな奴凧はなくて、どれも武者絵が描かれていた。風林火山の武田信玄とか、敵役の上杉謙信とかで、秀吉や家康はなかった。
凧はそのままでは飛ばないのだそうだ。(空気力学とか浮力とか気流とか、そんな説明はしなくても良いです。聞いてもわからない。あっかんべー)
家に帰ると、みんなで新聞紙や障子紙を切って、凧の手足に糊で貼り付けた。
これは「尻尾」と呼ばれた。

尻尾が付くと、祖父は孫の一団を引き連れ、今度は海岸へ行った。
M町の海岸は、波打ち際から堤防まで50メートル近い広い砂浜が広がっている。凧揚げはそこで行われた。電線も樹木もないから、引っかかる物がない。
私の凧はなかなか揚がらない。従兄はすぐに高く揚げてしまって、余裕の表情。
祖父が揚げてやろう、と妙技を見せてくれる。凧を砂の上に置き、糸を引く。それだけで、凧がツイっと空中に浮かび上がる。祖父は糸を巧みに動かし、徐々に高く揚げていく。
やがて、凧が風に乗ったと思えると、やっと私に糸巻きを返してくれた。

海は、遮る物がない太平洋である。
その波の上空に凧が並んで浮かんでいる。
糸は何十メートルの長さだろうか? 随分遠くまで伸びている。

私は、ふと心配になって祖父に尋ねる。
「お爺ちゃん、凧が海に落ちたら、どうするの?」
祖父は悠然と答える。
「泳いで取りに行けばええ。」

凧揚げの思い出は、いつも快晴だった。