2012年9月20日木曜日

夢ではない

蒲団の中で目を閉じていると、妻が台所で朝食の準備をしている音がする。
炊飯器の蒸気を出す音、包丁で野菜を刻む音、鍋で何かが沸騰している・・・

目覚ましが鳴って、私は渋々起きる。途端に全ての音は消え、室内は暗く、誰もいない。勿論、台所に朝食の用意が出来ているはずもなく、私は食パンをトーストしてインスタントコーヒーで簡単に朝食を済ませ、勤めに出る。

妻が亡くなって、早くも10年たつ。
だが、彼女の念はまだ残っている。
毎朝、彼女は朝食の支度をしている。私が瞼を開ける前まで。
夕方、彼女は夕食の支度をしている。私が玄関のドアを開けるまで。
室内の照明が瞬時に消え、食事の匂いも消滅する。廻っていたはずの換気扇も停まる。
もしこれが、私だけの体験だったらなば、どんなに気が楽だろうか。
私の頭がおかしくなった、で済むのに。
しかし、これは私の家を訪問する全ての人が体験するのだ。
宅配業者や郵便屋は、昼間、私が仕事に出ている留守宅で、窓越しに彼女が掃除をしたり、洗濯物をベランダに干すのを目撃している。
近所の奥さんたちは庭先の彼女と挨拶を交わしている。
私には音しか聴かせてくれないのに、彼らは彼女と会って言葉まで交わすのだ。
こんな理不尽があるだろうか?
私が仕事に夢中になって家庭を顧みなかった復讐だろうか。
彼女が体調不良を訴えた時に、医者へ行け、と言ったきり、気遣いすらしなかった報いなのか。

身支度をして私が玄関で靴を履いていると、奥の部屋で、妻がカーテンを開ける音が聞こえた。
私は思いきって声をかけた。
「行ってきます」
もう何年も言わなかった言葉だったから、声がかすれてしまった。
返事を期待していなかった。しかし、
ドアを閉める直前、声が聞こえたような気がした。
「行ってらっしゃい」

私は、彼女が私を迎えに来るまで、頑張って声をかけ続けようと思った。

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