震災の思い出 7
実は実家のそばの道路状況がよくわからなかったので、名谷のショッピングセンターの駐車場に車を置いてバスに乗りました。
垂水区では山陽バスが運行していました。
乗客は多くて、ほとんどの人がリュックサックを背負い、女性でスカート姿の人はいませんでした。
車窓から見える垂水の町は土埃で茶色に見えました。
自家用車は名谷周辺では走っていましたが、下(海に近い地区)へ近づくにつれて原付バイクが増えていきました。
実家は前述通り土台が傾いていましたが、母と寝たきりの祖父、認知症で何が起こっているのか理解出来ていない祖母の3人は無事でした。
父はこの時、単身赴任先の大阪府忠岡で神戸に帰る手段がつかずに職場にいました。母とは電話でなんとか連絡がついたのですが、大阪から垂水まで鉄道が使えず、代替バスがいつ運行開始したのか覚えていませんが、どうやって自宅へ帰れば良いのかわからなかったのです。
停電は解消され、上水道は断水していましたが、実家は何故か水が出ていました。
地理的な幸運で水道管の水が低い地区に流れ、祖父の家の風呂場の蛇口からポタポタ出ていたのです。
実家のある場所では井戸を持っている家が1軒だけあり、自治会長が井戸を使わせてくれるよう、その家に交渉しました。その家はケチで有名でしたが、時が時だけに承諾しました。
しかし母が「うちのお祖父さんのところで水が出ています」と告げると、近所の人たちがポリタンクを持って水汲みに来ました。
ポリタンク1箇1時間ほどかかったらしいのですが、それでもケチなお宅に頭下げるよりは、とやって来る人がいたのですね。
ガスは、不幸中の幸いと言うか、実家がある地区は都市ガスが来ておらず、全戸がプロパンを使っていました。地理的な条件と複雑な地権者の問題で神戸市が都市ガスを引けずに放置していたのです。
水洗トイレも各戸浄化槽設置の地区でしたから下水が地震でやられて使えない市街地に比べると問題はあまりなかったのです。
不便な地区が、この時ばかりは随分とその不便さ故に救われていました。
実は実家のそばの道路状況がよくわからなかったので、名谷のショッピングセンターの駐車場に車を置いてバスに乗りました。
垂水区では山陽バスが運行していました。
乗客は多くて、ほとんどの人がリュックサックを背負い、女性でスカート姿の人はいませんでした。
車窓から見える垂水の町は土埃で茶色に見えました。
自家用車は名谷周辺では走っていましたが、下(海に近い地区)へ近づくにつれて原付バイクが増えていきました。
実家は前述通り土台が傾いていましたが、母と寝たきりの祖父、認知症で何が起こっているのか理解出来ていない祖母の3人は無事でした。
父はこの時、単身赴任先の大阪府忠岡で神戸に帰る手段がつかずに職場にいました。母とは電話でなんとか連絡がついたのですが、大阪から垂水まで鉄道が使えず、代替バスがいつ運行開始したのか覚えていませんが、どうやって自宅へ帰れば良いのかわからなかったのです。
停電は解消され、上水道は断水していましたが、実家は何故か水が出ていました。
地理的な幸運で水道管の水が低い地区に流れ、祖父の家の風呂場の蛇口からポタポタ出ていたのです。
実家のある場所では井戸を持っている家が1軒だけあり、自治会長が井戸を使わせてくれるよう、その家に交渉しました。その家はケチで有名でしたが、時が時だけに承諾しました。
しかし母が「うちのお祖父さんのところで水が出ています」と告げると、近所の人たちがポリタンクを持って水汲みに来ました。
ポリタンク1箇1時間ほどかかったらしいのですが、それでもケチなお宅に頭下げるよりは、とやって来る人がいたのですね。
ガスは、不幸中の幸いと言うか、実家がある地区は都市ガスが来ておらず、全戸がプロパンを使っていました。地理的な条件と複雑な地権者の問題で神戸市が都市ガスを引けずに放置していたのです。
水洗トイレも各戸浄化槽設置の地区でしたから下水が地震でやられて使えない市街地に比べると問題はあまりなかったのです。
不便な地区が、この時ばかりは随分とその不便さ故に救われていました。
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